皆様、これから新たに1日1章を始める方も、再度チャレンジする方も含めて、歓迎いたします。この1日1章は、霊的な基礎体力をつけるための主食と考えて配信しております。どうぞ、良くかみしめて消化して、基礎体力のアップのためにお用い下さい。時々はデザートも用意しようと思います。現在、メール配信の登録者は38名です。1日1章は、数年前から西多賀教会のホームページにも掲載しておりますが、過去の1日1章を読んでいる方が、毎日、20名~60名くらいの方がおられます。この1日1章が、皆様の健全な霊的成長のために役に立つことを願っております。1日1章の準備をしている清宣教師のために、思い出したときで結構です、良き準備ができるようにお祈りください。宜しく、お願いいたします。

なお、創世記に入る前に、説明しておきたいことがあります。聖書には「章」と[節]がついていますが、聖書の原典には、章と節の区分はありません。旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシア語で書かれています。原典は、それぞれの書が、1つのまとまったものとして執筆されました。いつごろ、章や節がつけられるようになったかといいますと、紀元後1227年ごろ、カンタベリーの大主教、スティーブン・ラントンが、聖書を章に区分したと言われています。それから約200年後に、1448年、ユダヤ人ラビのナタンが、旧約聖書に節を付け、1555年、ロベール・エティエンヌが新約聖書に節を付けました。ですから、聖書の章と節の区分は、一応、尊重しつつ、一人の人の考えに基づいたものですので絶対視しないことも大切です。例えば、創世記2章に入って、2章4節に「これは天と地が創造された時の経緯(記録)である」と記されています。これは奥付のスタイルをとった「見出し」のようなものです。私たちの現代の文化では、最初の1章1節の前に来るものです。1章1節~2章3節の見出しになります。そうであれば、1章1節から2章3節までを、ひとつの章にした方が良かったとも考えられます。ところで、創世記1章1節~2章3節までの個所で、「神」ということばが33回も出てきます。聖書の中で、一番、「神」という名前が頻繁に登場する個所です。「神」とは、ヘブル語で、「エロヒム」です。一般的な名称で、もろもろの「神」を表現するのに用います。「エロヒム」は複数形ですが、一般に、尊厳を表す複数形と言われています。どういうことかといいますと、当時、王とか偉大な統治者は、自分のことを「われわれ」という複数形で表現していたからです。ところで、ここで用いられている動詞の「創造した」は単数形であり、主語が単数形であることを示しています。ですから、文法上はありえないのですが、あえて、聖書は、このような表現をしています。それで、最近は、この箇所は、三位一体の神を表すと理解されています。次に、創世記2章4節~4章26節までが、ひとつの見出しのもとに記されています。つまり、5章1節に奥付されている「これはアダムの歴史の記録である」ということばから分かります。アダムの歴史の記録とは、2章4節~4章26節の見出しです。この例を見ても、章の分け方があまり適切でないことが分ります。それでは、創世記1章へどうぞ!!

清宣教師