さて、アダムとエバの家族にとっては、近くにはエデンの園への道があり、ケルビム天使と回る炎の剣が置かれていました。現代の私たちが置かれている状況とは異なり、神の御臨在は見える形で残っていたと思われます。それなのに、なぜ、4章に記されているような出来事が起こるのか不可解です。アダムとエバの二人の息子、カインとアベルが主を礼拝したあとで、殺人事件が起きたのです。兄であるカインが、弟アベルを殺したのです。しかも、礼拝において主がアベルとその捧げものとに目を留められたが、カインとその捧げものには目を留められなかったという理由でした。ここで、ヒントになる言葉は、「ある時期になって」ということばです。どうやら、かなりの年数が経過していたようです。カインもアベルも、最初は、両親から教えられていたように、小羊の犠牲を捧げていたと思われます。カインは作物を栽培し、アベルは羊を飼い、それぞれの家族を養う、たくましい一家の家長となっていました。はじめは小羊を捧げていたカインでしたが、立派な作物を育てることが出来るようになったカインは、なぜ、地の作物ではダメなのか、という疑問が心に沸いたようです。汗水流して働いた努力の結晶です。それで、ある年、カインは思い切って作物を捧げることにしたのでした。一方、アベルは、いつものように、自分の努力の結晶としての捧げものではなく、自分の無力さを示す信仰の捧げものとして犠牲の小羊を捧げたのです。こうして、アベルの捧げものは、神に受け入れられ、カインの捧げものは受け入れられませんでした。このことは、私たちにとって衝撃的な出来事です。唯一の神様を礼拝しているなら、間違いを犯すはずがない。その人の人生は祝福されるはず。それなのに、殺人が起こったのです。まことの神様を礼拝したあとのことです。私たちクリスチャンの両親にとって、これは、見過ごすことが出来ない大事件です。礼拝に出席していればよい。唯一の神様を知っていればよい。・・・ということではないことを示しているように思われます。主を礼拝しているのに、殺意が起こっているのです。礼拝する時に、自我があるなら、礼拝したとしても容易に弟を殺す結果になることもあるということを示しています。自分の奉仕(礼拝)が否定されたという思いは、自分の心をひどく傷つけ、ものすごい怒り(5節)となりました。これはカインの心に起こった特殊なケースではなく、もし、私たちが警戒しなければ、日常的に起こることがらです。ご存じのように、パリサイ人たちも、主を礼拝していましたが、イエス様を無実の罪で十字架につけました。それは、妬みのゆえでした。主を礼拝する者であっても、自分の心を傷つけられると、ものすごい怒りに変わります。人間のプライド(誇り)を温存するなら、容易に人を裁き、仕返しするものとなります。私たちは、礼拝に参加する時、無防備であってはならないことを示しています。自分自身のために、家族のために、真の礼拝をすることが出来るように祈る必要があります。自分を第1とするなら、つまり、自分を正しいとするなら、礼拝そのものが、人を「裁く」ことにさえ、結びついてしまうのです。一方、自分が傷つけられたという思いは、霊的な盲目を招きます。今回の創世記4章は、カインの例を通して、主を礼拝することが、魔法のように人を変えるのではなく、その人の心のあり方が、礼拝を通して現われることを示しているように思います。ですから、自分のため、家族のため、霊と真とをもって礼拝できるように真剣に祈りつつ、礼拝に備えたいと思います(ヨハネ4章24節)。さて、後半の17節~24節は、創造主なる神に背を向けて生きることを選んだカインと子孫たちが都市文明の基礎を築いたこと、ここから創造主抜きの文明(畜産業、竪琴と笛などの芸術、青銅と鉄の冶金技術など)が生まれたこと、それらは、創造主抜きの繁栄を目指したものでした。カインの子孫の代表的な人物がレメクでした。一方、25節~26節、アダムの信仰は、セツに引き継がれ、さらに、エノシュに引き継がれました。アダムの子孫の代表はエノシュです。このエノシュの世代において、主の御名によって祈ること(信仰復興)が始まりました。

清宣教師