さて、きょうは、読んでいて衝撃を受けました。「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした」(2節)。その結果、「人の齢は、120年にしよう」(3節)という神の裁きの宣告を受けたのです。現代の社会では、自分が好きな女性と結婚するのが、ごく当然のこととして通用しています。しかし、この聖句は、裁きの宣告と結びついていて、重大な意味をもっているように感じました。創造主が人類の祝福の土台として定めて下さった結婚(創世記2章24節、25節)と、「美しい女性を見て、その中から好きなものを選んで、自分たちの妻とする」こととは違うということになります。主は、そのような結婚をする者たちに対して、「わたしの霊は、永久には人のうちにはとどまらないであろう」と裁きの宣告をされたことになります。つまり、自己中心のエロスの愛が地に満ちる時、地に悪が増大することを示唆しています(5節)。ところで、「人の齢は、120年にしよう」という聖句は、以前は、神が人間の寿命を120歳に定めたという解釈が一般的でしたが、最近は、大洪水による裁きのあとも、例えば、アブラハムは175歳(創世記25章7節参照)まで生きていることから、この120年というのは、人間の寿命ではなく、6章3節の神の裁きの宣告から、ノアの大洪水による裁きまでの猶予期間であるという解釈が有力になって来ています。それにしても、地球上の生命を一掃するという、神の裁きがなされなければならない地上での乱れとは、なんだったのでしょうか?「すべて肉なるものが、地上でその道を乱していたからである」とも述べています(12節)。「その道」とは、創造主が定められた秩序のことです。そこで、2節の「神の子ら」とは、伝統的な解釈では、「神を敬うセツの子孫」であると解釈されてきましたが、神を敬うものたちが性的に堕落したとしても、それだけで、地球上の生命を一掃する理由となるだろうか、という疑問が残ります。それで、神の子らとは「堕落した天使たち」のことであるという解釈が生まれました。一般には聖なる天使たちはめとったり、とついだり、子を産むことはできないので、数が増えることはありません。ところが、堕天使たちは、創造の秩序を破り、美しい女性(人間)をたぶらかして、こどもを生ませた、その子たちが、ネフィリム(巨人)となったという解釈です。これは、ユダの手紙、6節~7節に記されている「主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日の裁きのために永遠の束縛をもって、暗闇の下に閉じ込められました。また、ソドム、ゴモラの周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の日の刑罰を受けて、みせしめにされています。」という聖句と関連付けて解釈します。つまり、創造の秩序を逸脱した堕天使たちの反逆行為により、地上に人間ならぬ人間が増え、地を満たそうとしているので、主はそれらをみな「地の面から消し去ろう」という、地球規模での裁きを決断したと考える解釈です。そうなると、もうひとつ、重大な事柄が浮かび上がります。天使たちが自分の領域を守らなかったことに関連して、人間の同性婚のことが取り上げられていることです。ソドムとゴモラが火で滅ぼされたのは、堕天使たちが自分たちの領域を守らなかった反逆に匹敵する、創造主への反逆とされていることです。現代のヒューマニズムの世界観が支配する先進国では、同性同士の結婚は人間の当然の人権であるという主張がなされています。しかし、聖書は明らかに、同性婚を禁じています。残念ながら、同性婚は欧米諸国で広がっています。不思議に、この欧米諸国の背教と裏返しに、イスラム教の信者が増えています。さて、後半の14節以降の箱船の設計に関する記事については、7章で述べることにします。ただ、最後にまとめると、現代の倫理的な環境は、「地は堕落し・・・」(11節)と記されている環境に似ています。そこで、6章22節のまとめに記されているとおり、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」ということばが、私たちの心に大きく響いてきます。私たちも、このような時代に生きている信仰者として、ノアのようでありたい、と願います。その時代にあっても、ノアは神と共に歩んだ!(9節)。

清宣教師