冒頭、「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった」と記されています。当時の社会では、妻が子供を産めない場合、非常に肩身の狭い思いをしたようです。カナンの土地に入ってから、すでに10年の歳月が過ぎておりました。そこで、サライは、夫のアブラムに対して、自分に仕える女奴隷のハガイによって子を得るように勧めました。「彼女によって子どもの母になれる」と考えたからでした。アブラムは、妻からの申し出でもあり、エジプト人ハガルを妻として、自分の子どもを得ることにしました。アブラムではなく、妻サライの提案でしたが、それは当時の妻としてのつとめでもあったようですが、その後、サライの心が次第に変わっていきました。それはハガルがアブラムの子をみごもった途端、ハガルのサライに対する態度が横柄になってきたという事情がありました。これらの事態は、アブラムも、サライも、あらかじめ予測できたといえば、予測できる事柄でありました。しかし、サライの人柄が、とても良い性格であったので、サライ自身もそのような自分になるとは考えていなかったし、アブラムもサライがそのようになるとは考えていなかったようです。しかし、人間は、そのことが起きるまでは穏やかな性格に見えたり、寛容な人に見えるのですが、実際に、その事態に直面すると変わってしまうことが多いようです。サライほどの女性でも現実に直面すると変わるということは、私たちへの大きな教訓を残しています。女奴隷ハガルにしても、正妻のサライの好意、恵みによって、そのようなチャンスを与えられたのですが、自分の手柄にして横柄になってしまいました。人は、自分の立場が優位に立ったと思うと、容易に、変わってしまうものです。異邦人クリスチャンも、本来、イスラエルの民とは異なり、キリストの花嫁の立場にあったわけではありません。ただ、神様の憐みと恵みによってキリストの花嫁とされたのです。しかし、実際に、花嫁とされると、変わってしまったのです。ユダヤ人を見下し、もともと、自分たちが正当な花嫁であるという横柄な態度に変わりました。異邦人キリスト者は、ユダヤ人を迫害する者となり、高慢になり過ちを犯しました。私たちも、多くの財産を得るようになったり、より高い地位についたり、より多くの知識や技術を身に着けたり、他の人より優位に立つと、人格が変わってしまうケースが多いように思われます。いつも、謙遜で寛容な人であり続けるには、自分を過信せず、真実の自分を見つめて、主の前に低くなることと思われます。さて、サライは、夫アブラムに対して八つ当たりのような態度をとるようになりました。サライはある意味、自分で蒔いた種を刈り取っていたのですが、アブラムのせいにしました。アブラムはハガルをサライに委ねました。サライはハガルをいじめてハガルが自分から去るように仕向けました。そして、ハガルはサライのもとを逃げ去りました。しかし、主の御使いがハガルのもとに現われて、ハガルを諭しました。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」。さらに、「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる」という祝福のことばを与えました。ハガルにとって、主の使いによって語られたことは、大きな感動でした。それで、主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んで敬いました。ハガルは、主のことばによって慰められて、主の御使いのことばに従いました。自分を低くして、サライのもとに帰ったのです。自分を低くして主人のもとに帰った時、サライもハガルを受け入れました。そして、ハガルは時満ちて、男の子を産みました。主の御使いによって名付けられたとおり、イシュマエルと名付けました。そのとき、アブラムは86歳になっておりました。こうして、しばらくの間、アブラムの家には平和が訪れました。私たちも、ハガルのように人生の道に迷っていた時、イエス様が出会ってくださり、救いの中に導いてくださいました。きょうも、イエス様に愛され、救われた者として、笑顔で生活しましょう。

清宣教師