アブラハムはソドムとゴモラの町の人々のために、執り成しの祈りをしました。その中で、ロトと二人の娘が救出されました。アブラハムは、神の友として、主の御計画を打ち明けられた人物でした。一方のロトは、ソドムの町の風潮にどっぷりとつかってしまった人物でした。その老年期は、暗く、恐れに満ちた人生となりました。アブラハムは、ロトとは対照的な人物でしたが、なんと、再び同じ失敗をしてしまったのです。その失敗が、今日の聖書の箇所に記録されています。世の中の伝記であれば、伏せられる部分ですが、聖書は正直に記しています。アブラハムほどの信仰の偉人であっても、同じ過ちを繰り返しているのです。むしろ、未信者のアビメレクの方が正しい行動規範を身に着けていました。アブラハムが同じ過ちを繰り返した理由はなんでしょうか? やはり、「恐れ」であったと考えられます。箴言に次のように記されています。「人を恐れると罠(わな)にかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」(箴言29章25節)。このみことばは、とても大切な、具体的な勧めのことばです。アブラハムは、人を恐れたことから、妻のサラを自分の妹であると偽りました。それで、アビメレクがサラを自分のところに召しいれたのです。このことは、神の御計画を危うく台無しにするところでした。神の御計画はアブラハムとサラの間に生まれる男の子が跡を継ぐことでした。主の憐みは大きいです。私たちの思いを遙かに超えて神は寛大なお方です。主なる神は、ご自分の手で介入して下さり、アブラハムとサライを助け出してくださいました。もし、主に信頼していれば、このような恥ずかしいめに遭うことなく、守られていたに違いありません。それにしても、神様に選ばれた者はなんと幸いなことでしょう。主は失敗からも救い出してくださるのです。私自身、苦い経験があります。まだ、大学の研究室で助手として勤務していた時のことでした。当時の慣習として、当該研究室の主任教授が学会の○○委員会の委員長の職務を引き受けた場合は、その研究室の助手が○○委員会の幹事を務めることになっていました。それで、私が所属している研究室の教授が○○委員会の委員長に任命されたので、自動的に私も○○委員会の幹事として、委員長の職務を手伝うことになりました。ある時、○○委員会を開催することになり、各大学の委員の人たちに、○○委員会の開催の連絡をすることになりました。ある日、教授から、委員全員から出欠の返事をもらったかどうか、尋ねられました。私は、全員に連絡しましたと返事をしました。しかし、実際には、全員にはまだ連絡出来ていませんでした。私としては、このあと、まだ連絡できなかった委員に電話をかければ済むと考えたからです。ところが、毎日、連絡しても、その委員に連絡が取れませんでした。ついに、委員会開催の日が近づき、私も教授に返事をしなければならなくなりました。結局、私がウソをついていたことを正直に話すしかなくなりました。それまで、クリスチャンとしての証しをしてきたのに、「ウソをついていました」と話すのは、とても恥ずかしく、その苦しさは耐えられないほどのものでした。そのことを教訓に、二度ともうこんな思いはしたくない、という堅い決心となりました。30代の出来事でしたが、それ以来、2度と同じようなことをしませんでした。自分としては、その経験が益と変えられました。私たちクリスチャンも、怖い上司に怒られまいとしてウソをついてしまいたいという誘惑が来ます。「人を恐れると罠(わな)にかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」(箴言29章25節)とあります。毎日、私たちは、このような選択に直面させられます。主にあって強くなれるよう、成長したいです。そして、もうひとつ、忘れてならないことは、たとい、私たちが失敗したとしても、正直に失敗を認める時、主はその失敗を最小限にとどめてくださいます。なんと、大きな主の恵みでしょうか。主の御手は、きょうも、私たちの生活の中に見ることが出来ます。主よ。あなたに信頼します。お守りください。

清宣教師