1節~14節: 1節は、「これらの出来事の後」という文脈で始まっています。つまり、神様には神様の御計画があり、そこには順序があるということを知ります。きょうの22章の場合は、アブラハムの信仰が豊かに成長したあとの出来事でした。今なら大丈夫という時期に、主は試練を与えられたことを意味しています。今回の試練は、アブラハムの人生の中で最大の試練でした。「神は、アブラハムを試練に会わせられた」。主語は神様です。神様が試練に会わせられたのです。神様は、すべてを御存知です。神様は「あなたがたを耐えられない試練に会わせることはなさらない」(コリント人への手紙、第1、10章13節)と約束されています。ですから、「これらの出来事の後」というのは、とても大切なことばです。人生最大の試練は、人生最大の宝物をもたらします。もし、私たちがその試練に敗退するなら、ほとんど意味のないことになってしまいます。しかし、その試練に耐えるなら、それはあなたの人生の最大の宝物となります。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。必ず、試練と共に、脱出の道を備えておられるのです。もう一歩、もう一歩。必ず、そこに神様からの解決の道が開かれます。アブラハムは、自分の最愛のひとり子を祭壇の上で全焼の生贄として神様に捧げるように命じられました。これほどの試練はほかに考えることが出来ません。しかし、アブラハムは、やはり、翌朝早く(3節)、神のことばに従って出発したのです。目指すはモリヤの山でした。3日目にモリヤの山が見えてきました。そこから、アブラハムはイサクと二人だけで歩み始めました。そして、ついに、イサクを縛って祭壇の薪の上に寝かせました。そして、あわや刀を振り上げてイサクを屠ろうとしたとき、神様からストップがかかりました。さらに、それまではアブラハムの目に隠されていた一頭の雄羊が、角を藪にひっかけているのが見えました。そして、その雄羊を、イサクの代わりに全焼のいけにえとして捧げました。アブラハムは父なる神様の愛を示すものとなり、イサクは御子なる神様の従順を表わすものとなりました。新約聖書の中心テーマである御父と御子による贖罪の計画について、アブラハムとイサクは、旧約聖書の中で最も明白な型となる特権にあずかることができたのです。厳密には、アブラハムは、実際には、イサクを捧げることはありませんでした。神様が介入して下さり、ストップしてくださったのです。そして、イサクの代わりに雄羊が屠られました。ですから、御子イエス様の真の型は、この雄羊ということになります。それにしても、神様が介入して下さったのは、ギリギリの一歩手前でした。多くの信仰の先輩が経験していることですが、神様が介入して下さるのは、ギリギリの最後の一瞬であることが多いようです。皆様も、今まで忍耐してきたのですから、あきらめないで、最後まで待ってください。「あなたがたが約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」と聖書は記しています。15節~19節:聖書全体の中心テーマである、神の御子の犠牲と父なる神の愛の苦悩というテーマをアブラハムはみずから、見事に表しました。それで、主は、アブラハムに対して、誓いをもって、大きな祝福を与えることを約束されました。アブラハムの子孫を増し加え、その子孫が敵に勝利するということ、また、アブラハムの子孫を通してすべての国々が祝福されるという約束でした。アブラハムが主によって祝福されたのは「あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(18節)という従順のゆえでした。20節~24節:ここでも、「これらの出来事ののち」という表現がなされています。アブラハムの兄弟であるナホルに子供たちが与えられたこと、その中に、リベカという女性が含まれていました。これが、のちのち、イサクの妻となるべき「リベカ」でした(23節)。アブラハムがイサクを捧げ、イサクが従順に従った時、神の計画は次々と実現していくのです。まさに、「主の山に備えあり」です。

清宣教師