1節~5節:アブラハムは、妻のサラが死んだ後、後妻としてケトラを迎えました。そして、子供たちが6人も生まれました。アブラハムは、嫡子であるイサクには、全財産を与えました。それは、アブラハムの財産は、アブラハムのものであるというよりも、主なる神様からの贈り物でした。ですから、主との契約の中にあるイサクに全財産をあたえたのです。一方、ケトラの子供たちや孫たちには、贈り物を与えて、東の国へと旅立たせて、イサクから遠ざけました。身内で争いなどが起こる事がないようにとのアブラハムの配慮であったと思われます。7節~11節:アブラハムは平安な老年を迎えて、長寿を全うして息絶えて死にました。そして、自分の民に加えられました。不思議な表現です。なぜなら、アブラハムはイスラエルの父祖であり、イスラエルの民は、時間的には、のちのち、千年後、2千年後に、大きな民になるのであって、アブラハムが死んだときにはまだ、イスラエルの民はいませんでした。しかし、聖書は、そのような時間的な次元を超えて、アブラハムは自分の民に加えられたと表現しています。不思議なことですが、私たちにとっても、うれしいことですね。さて、イサクとイシュマエルの二人は、父アブラハムの遺体をマクペラの墓に葬りました。アブラハムは、「いのちの恵みを共に受け継ぐ者」(ペテロの手紙、第1、3章7節)として妻サライの遺体のある同じ墓に葬られました。12節~18節:イシュマエルの子孫の略歴が記されています。主の約束通りに、イシュマエルもまた、祝福されたのです(創世記17章20節)。主は、イシュマエルとその子孫に対して無関心ではなかったことを示すものです。19節~34節:イサクが、妻リベカを迎えてから20年が過ぎましたが、こどもが与えられませんでした。ある意味、アブラハムと同じ試練を通されたことになります。そこで、イサクは、妻リベカのために20年間、祈りを続けなければなりませんでした。しかし、ついに、祈りが応えらえてリベカが身ごもりました。そして、2倍の祝福をうけました。双子をやどしたのです。しかし、胎内でふたりの子がぶつかりあうので、心配になり、主のみこころを求めて祈りました。すると、主から「この子供たちから、二つの国が起こること、そして、兄が弟に仕える」という預言をいただきました。長男はエサウ、次男はヤコブと名づけられました。この兄弟は、双子の兄弟にもかかわらず、気質が違っていました。兄のエサウは、野人であり、巧みな猟師となり、ヤコブは天幕の人で、穏やかな人となり、羊飼いをするようになりました。父イサクは、兄エサウを愛し、母リベカは弟ヤコブを愛していました。この父親と母親の偏愛が、やがて、エサウとヤコブの兄弟がお互いに憎みあうことになる要因のひとつであると考えられます。ある日のこと、ヤコブが家で煮物を煮ていると、エサウが野から帰ってきました。エサウは飢えていました。そこで、レンズマメの煮物を料理しているヤコブに向かって、煮物を食べさせてくれと頼みました。すると、ヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言いました。それに対して、エサウは、こともなげに、「見てくれ、死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と答えました。このやりとりからも、エサウは衝動的で無思慮なひとであること、一方のヤコブは、冷静で打算的なひとであることが分ります。おそらく、ヤコブは母親から二人が生れる前になされた主の預言のことを聞いていたのでしょう。こうして、エサウは、長子の権利を軽んじ、長子の権利をヤコブに売りました。エサウは、目先の飢えを満たすため、レンズマメの煮物を食べたり飲んだりして、そこを立ち去りました。ヤコブとしては、転がり込んできたチャンスを自分のものとして掴んだに過ぎないのかも知れませんが、このような方法で手にした祝福は決して幸いをもたらしませんでした。ヤコブは、その後、母親の唆しとはいえ、父親をも騙してしまう道を選択してしまうことになるのです。このことは、のちのち、ヤコブの生涯にわたって、負い目となりました。

さて、今日、冒頭に記されていたアブラハムのように、私たちも平安な老年を迎え、長寿を全うして天の御国に入れられる人生を、心の中に描いて、主に委ねて感謝の一日を過ごしましょう。清宣教師