エサウの子孫の系図が、細かに、丁寧に記されています。エサウの子孫は、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の祝福の通り、地の上に拡がりました。多くの部族、そして、多くの首長たちが誕生しました。みなエサウの子孫です。その中に、特筆されているのは、「温泉」を発見したアナのことです(24節)。他の人たちは、ほぼ名前だけですが、聖書に記されているということは全世界の人に知られるということです。これらの人たちの名前がどんな意味をもつのか、考えてみました。ひとつは、誰でも、親がいて、先祖がいて、初めて自分が存在するということです。どんなに自分中心に生きていても、必ず、両親がいるし、その両親にはそれぞれ両親がいます。こうして、10世代、20世代、30世代とさかのぼるなら、軽く100万人くらいになってしまいます。そのうちの誰か一人が欠けても、自分は存在しなかったわけです。私も、あなたも、大勢の人たちが生きてきたおかげで、いま存在するという事実を認める必要があります。決して、自分一人で生きているわけではありません。同時に、再臨まで、どのくらいの期間があるか分りませんが、私たちの子孫に対して、私たちが先祖となるということです。私たちが生きることが、子孫のいのちを生み出すのです。ここに載っている人たちの人生については、ほとんどの人が何を、どのように生きたのか記されていません。だからと言って神の前に軽んじられているわけではありません。聖書を読むなら、すべての人の生涯は、天にある「いのちの書」や他の書物に詳細に記されているからです。神様がその人の名前を知らないということはありません。たとい、聖書の中に記されていなくても、すべての人のいのちは、主の前に覚えられています。新約聖書においては、このことが、もっと明確に示されています。神の御子イエス様は、もっとも小さい者のひとりも、父なる神様に忘れられることはないと言われます。「失われた一匹の羊」、「失われた1枚の銀貨」、「放蕩息子」などの例え話を通して、神様はもっとも小さい者をも見ておられ、探し出してくださるお方です。天の御国は聖書にはその名前が記されていない無数ともいえる大勢の人たちでいっぱいです。私たちひとりのいのちなんて、小さなものと思うのは間違いですね。私たちの子孫は数えきれないほどになる可能性があります。多くの人たちのいのちが、わたしたち一人一人にかかっています。そのようなことを想像することも必要なことと思います。

今日、ご一緒に祈りましょう。「私たちの子孫を祝福して下さい。どうぞ、主の前に、私たちの子孫が神の国と神の義を求める魂でありますように、祝福して下さい。私と私の家族を祝福して下さい。大いに祝福して下さい。」また、聖書には子を産んだことのない母親について「主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせる」(詩篇113篇9節)と記し、さらに、御国では多くの子を持つようになると約束しています(イザヤ書54章1節)。ですから、「私たちが、大勢のこどもたちを生む者となることが出来ますように、私たちを大いに祝福して下さい。」と、共に祈りましょう。主のお名前は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」です。決して、あなたひとりの神ではありません。あなたの信仰による子どもたち、孫たちの神でもあります。私たちが信仰を持つことは個人的なことではありますが、同時に、それは大勢の人たちの救いに関わることでもあります。皆様と共に、今日も、主の祝福がありますように。

清宣教師