族長ヤコブは、147年の人生を終えるにあたり、12人の息子たち、ひとりひとりに遺言を残します。あるものには戒め、あるものには叱責、あるものにはほめことばを与えました。この遺言は28節に記されているように、イスラエルの12部族の父祖たちへの祝福であり、「おのおのにふさわしい祝福」を与えられたものです。おのおのにふさわしい祝福、と表現されているのですから、神の御計画には間違いがないということです。神の目には、おのおのにふさわしい祝福であるということです。わたしたちの目には不公平に見えることもありますが、しかし、全能の神の前で、それはそれぞれにふさわしい祝福なのです。例えば、ヤコブの12人のこどもを例にとっても、それぞれ、生まれたときの状況は異なります。長男として生れたのか、次男として生れたのか、末っ子として生れたのか、誰が母親か、両親が何歳の時にうまれたのか、いろいろ、状況は異なります。しかし、それは神の祝福の御計画でした。私たちが勝手に不公平だと決めつけて生きるなら、その人生はなんと空しいことでしょう。それよりも、それぞれに最もふさわしい神の祝福であるということを事実として受け留めることが私たちのあるべき姿です。この預言の中には、二つの山があります。前半の頂上はユダです。後半の頂上はヨセフです。ルベンは長子でしたが、自分の感情や欲望を抑えることが出来ず、長子の特権を失ってしまいました。それぞれが与えられた状況の中でどのように生きるかは、それぞれが選択していくものです。もちろん、育っていく環境も、ひとりひとり、それぞれ違います。しかし、その中でどのように生きるかを決めるのは、ひとりひとりです。例えば、ヨセフを取り巻く環境は、山あり、谷あり、波乱万丈でした。しかし、ヨセフ自身は、環境に惑わされることなく、全能の主に信頼して、主の祝福の御計画の真っただ中を生きることが出来ました。そして、家族のいのちを救うものとなりました。もうひとつの例を挙げてみます。5節~7節の祝福です。「シメオンとレビは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具、・・・・・私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」と記されています。シメオンとレビは、あのシェケムの町で剣を暴虐の道具として用いました。「それゆえ、イスラエルの中に散らそう」と記されています。確かに彼らは失敗しました。しかし、それをどのように生かすかは、彼等自身の課題でした。シメオン部族は、ユダ族の隣に相続地をもらいましたが、やがて、力のあるユダ部族や他の部族の中に吸収されてしまいました。確かに、シメオン部族は、預言の通り、イスラエルの中に散らされたのです。一方、レビ部族は、のちに、イスラエルの民たちが神に反逆し偶像礼拝をおこなっていた時、モーセの命令に従い剣をもって民たちを打ちました(出エジプト記32章25節~29節参照)。それゆえに、レビ族は、主に仕える奉仕のための特別の部族として選ばれ、12部族の相続地の中に、それぞれの町をもつことになりました。こうして、預言のとおり、イスラエルの中に散らされました。シメオン族とレビ族は、同じ預言を受けましたが、それぞれ、どのように受け止めるかで、結果的には預言の通り、イスラエルの中に散らされましたが、その中身は異なりました。シメオン族はその預言を呪いの結果としました。しかし、レビ族はその預言を祝福の結果としました。私達はみな、神のかたちに造られたものであり、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と見なされる存在です。それをどのように生きるかは、私たちの選択の課題です。良い実を結ぶのか、悪い実を結ぶのか、それは私たちの選択にかかっています。なお、1節に記されていますが、49章の内容は「終わりの日に、起こること」です。ですから、まだ成就していない事柄も含まれているということです。例えば、「ゼブルンは海辺に住み」(13節)と預言されていますが、まだ、これは歴史上、成就してはいないものです。これから成就すると考えられます。

さて、環境に左右されることなく、その主の祝福を受け留めて生きることが祝福の人生を築くカギです。きょう、主にあって、祝福の器として選ばれていることを信じて、感謝し、ひとつひとつ、誠実に対処していきましょう。清宣教師