さて、11章に入り、主はモーセに対して言われました。「わたしはパロとエジプトの上になお一つの災いを下す。」。全能なる神にとって、パロの強情と反抗は御計画の中に織り込み済みでした。そして、遂に、あと一つの災いというところまで来たのです。エジプト人とその家畜の初子はみな死ぬという災いです。ここに至って、パロとエジプトの民は震え上がり、早く出て行ってくれと嘆願するようになるのです。

11章で、少し、注意しなければならないことがあります。それは、10章の最後で「モーセは言った。『結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。』」と記されていますが、実際に、パロのもとを退出したのは、11章8節の最後です。「こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った」と記されているからです。ですから、11章1節~8節の出来事は、まだ、モーセがパロのもとにいたときのことと思われます。主は、モーセに対して、最後の裁きである第10番目の災禍が起こる事をパロに伝えるように言いました。最後の災禍とは、エジプト人の初子(長子)、奴隷の初子、さらに家畜の初子に至るまでみな死ぬという宣告でした。一方、イスラエル人は神の民(長子)であるということで、区別するので、彼らのいのちも、家畜のいのちも損なわれることがないという宣告でした。

しかし、パロはその心を頑なにして、主のことばを受け入れることをしませんでした。それゆえに、最後の災禍がエジプト全土を襲うことになるのです(11章10節)。

話は変わりますが、黙示録に記されているように、終末時代にも、神の裁きとしての災禍が人類を襲います。しかし、そこにも、神のしもべとそうでない者たちとの間には区別があります。災禍が襲う前に、神のしもべたちの額には、しるしがつけられます(黙示録7章3節参照)。災禍が神のしもべたちを滅ぼすことがないためです。

きょう、わたしたちは、神のしもべとして、すべてのことについて感謝をもって生活しましょう。確かに、いま、私たちは新型コロナウィルスの感染という状況の下、自由に外出することが出来ず、会話することもできない不自由な生活を強いられています。しかし、キリストを信じる信仰のゆえに牢獄に入れられているわけではありません。イエス様を信じること、共に祈ること、賛美すること、友達に証しすることなど、みな自由です。やはり、ないもの探しではなく、あるもの探しをすることも大事ですね。もう少しの辛抱です。一緒に、感謝すべき事柄を捜して、主を賛美し、共に主の栄光を表しましょう。

清宣教師