きょうの個所も、主なる神様は、わたしたちの心を良くご存じであり、権力者におもねることも、逆に、弱いものに同情するあまり、貧しいものを特に重んじることがないように注意をあたえています(2節、3節)。また、「憎んでいる者のろばが荷物の下敷きになっていたら、それを起こしてやりたくなくても、必ず、彼といっしょに起こしてやらなければならない(5節)」と勧めています。「起こしてやりたくなくても!!!!」。こんなにまでして、私たちの弱さをカバーして、あらかじめ注意してくださるなんて、凄い神様ですね。わいろをとることも、正しい裁きを曲げるきっかけとなるので、その誘惑から遠ざかるように勧めています。10節―12節は、安息年と安息日についての規定です。畑は濫用するのではなく、6年間は種を蒔いて利用してもよいが、7年目は休耕するように勧めています。7年目の収穫物は、人間が働いた結果ではないから、貧しい人や野の獣に食べさせるように、規定しています。なんと、行き届いたご配慮でしょうか。七日目の安息も、牛やロバ、女奴隷の子や在留異国人に休みを与えるためであると言われています。天地万物の創造主である神様は、すべてのものに、心を配っておられます。全ての土地は創造主の所有物です。ですから、創造主のみこころに従って土地を用いる時、最も豊かな収穫の祝福を受けるのです。後に、イスラエルの民は、この定めを無視したために、神の裁きとして強制的に70年という安息の時期を過ごすことになりました(歴代誌第2、36章21節)。14節―19節は、イスラエルの三大祭に関する規定です。ところで、イスラエルには、年に3度の祭がありましたが、男子はみな主の前に(具体的には幕屋、あるいは神殿)出なければなりませんでした(17節)。3度の祭は、覚えるには、「タナカさんは祭りが大好き」と覚えると楽です。①「タ」は「種を入れないパンの祭(15節)」で、この中に過ぎ越しの祭が含まれます。②「ナ」は「七週の祭(別名、ペンコステの祭、初穂の刈り入れの祭)」です。そして、③「カ」は「仮庵の祭、別名、収穫祭」です。この中には「子ヤギを、その母親の乳で煮てはならない」という禁止令があります。その当時、異教の習慣で、子ヤギをその母親の乳で煮て、その汁を畑に注ぐことにより、次年度の豊作を願うような宗教行事があったようです。そのような魔術的な行為を禁止しています。20節―33節は、御使いを遣わすという約束とそれに伴う警告が記されています。この御使いの役割は、道中、民たちを守り、約束の地に導くことでした。民たちは、この御使いのことばに従う必要がありました。従わないなら裁きが伴うことが警告されています。主の使いは約束の地の異邦の民を徐々に追い払うと言っています。しかし、その土地を占領した時、決して、その地の偶像礼拝や異教の風習をまねてはいけないと警告されています。主に従うなら、病気からも、流産からも守られるのです。また、飲み物も食べ物も与えられると約束されています。また、主は、約束の地から、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、くまばちを用いて、徐々に追い出すと約束されました。そこを管理する人がいなくなって、土地が荒れ放題にならないための措置でした。しかし、その土地の者や彼らの神々と契約をむすぶことは固く禁じられています。イスラエルの民が神のみことばに聞き従いさえすれば、神ご自身が、イスラエルの敵を追い払って下さるという約束です。今日の個所には、いろいろな規定が交じり合っていますが、その中に、イスラエルの民のために心を配っておられる主の御配慮を見出すことと思います。「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」(20節)。
きょう、主の使いが私たちの前を歩み、先々の備えをして下さる、という神の約束を黙想してみましょう。私たちは人生の途上にあります。しかし、主は御使いを遣わして、私たちの前にある困難や妨害物を取り除いて下さるというのです。主に感謝を捧げましょう。
清宣教師