1節~10節:これは聖所と至聖所の間にある仕切りの幕の前に置く香檀のことです。内側はアカシヤ材で、外側は純金をかぶせて作りました。すでに学びましたが、これは、キリストの神性と人性を表しています。金の輪と棒は、移動式であることを示し、私たちはいまだにこの世の荒野にいることを表し、約束の地は、先にあることを示しています。アロンは、毎朝、毎夕、金の香檀の上で香をたかねばなりませんでした。これは私たちの大祭司が、つねに私たちの祈りを執り成しておられることを示しています。香の煙は聖徒たちの祈りを指しています(黙示録8章3節~5節参照)。「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(へブル人への手紙、7章24節下)。なお、捧げる香は、主によって定められたものであり、異なる香を捧げることは主への反逆とみなされました。この香檀は1年に1度、罪のためのいけにえの血によって贖いをする必要がありました。
11節~16節:イスラエルの民は神の民として、20歳以上のものはみな、聖所のシェケルで半シェケルを、自分自身の贖い金として、主に奉納しなければなりませんでした。これは『贖いの銀』と呼ばれ、会見の天幕の必要にあてられました。
17節~21節には、祭司が身体ををあらうための青銅の洗盤のことが記されています。まず、水が入れられ、祭司たちが手足を洗い、それから会見の天幕に入ることが出来ました。イエス様は、主の晩餐にあずかる前に、弟子たちに、お互いに足を洗うように勧めました(ヨハネの福音書、13章3節~20節参照)。洗足式として知られており、ある教会では、いまも、主の晩さんの前に洗足式を行っています。
22節~38節:聖なる注ぎの油の製法と調合について記されています。ここでも、これは聖なるものであるから、これと似たものを作ってはならないと命じられています。神のものは神のものです。以上ですが、少し、参考となると考えられることを補足しておきます。幕屋の設計とデザインは、創造主なる神様によるものでした。そこには細部に至るまで、主イエス・キリストによる贖罪を表すように出来ていたと考えられます。1.幕屋の入り口はいつも開かれていました:いつでも、すべての罪人がみもとに近づくことを神は待っておられることを指しています。2.至聖所と聖所の仕切りの幕には裁きを象徴するケルビムが織りなされていましたが、入り口の幕にはなかったことは、神の恵みを示しています。3.祭壇には階段がありませんでしたが(主エジプト記20章26節)、これは、神に近づくための人間の努力は一切無駄であることを示しています。4.青銅の洗盤には寸法が示されていませんでした。神のみことばのもつ聖潔には、限界がないことを示しています。5.幕屋には窓がついていませんでした。神の臨在のあるところ、神ご自身が光であり、自然の光を必要としないことを示しています。6.祭司が座るイスは用意されていませんでした。すべて祭司は毎日立って奉仕をしていました。これに関連して、へブル書に次のように記されています。「すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(へブル人への手紙、10章11節~13節)。人間の祭司の務めは不完全であり、毎日、同じいけにえを繰り返し捧げる必要がありましたが、キリストはただ一度、完全な贖いを成し遂げたので、そのあとは、父なる神の御座の右に着座されておられるのです。
きょうも、主イエス様は父なる神様の御座の右において、私たちのために執り成しておられます。どんな時も、主は私の力です。清宣教師