祭司は、日常の奉仕として、神の民を代表して、日ごとに奉献する奉仕がありました。そのうち、6章に記載されていたのが、①.全焼のいけにえ(6章9節~13節)、②.穀物の捧げ物(6章14節~18節)、③.全焼の穀物の捧げ物(6章20節~23節)、④.罪のためのいけにえ(6章25節~30節)の4つでした。第7章では、⑤ 罪過のためのいけにえ(1節~10節)、⑥和解のいけにえ(11節~21節)に関する規定が記されています。それから、補足として、脂肪と血は、主のものであるから、イスラエルの民は、一切食べてはならないなどの規定(22節~36節)が記されています。そして、最後に、1章から7章までのささげ物に関する規定のまとめとして、「これは全焼のいけにえ、穀物のささげ物。罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、任職と和解のいけにえについての教えである」(37節)と記されています。また、これらの捧げ物に関する規定は、主がシナイ山でモーセに命じられたものであることが再び、明記されています。
⑤の罪過のいけにえに関しては、祭壇で焼かれるのは脂肪全部であり、肉は「最も聖なるもの」に分類されており、祭司たちが聖なる庭で食べることになっていました。祭司の取り分については、全焼のいけにえの皮は、司式を担当した祭司のものとなり、罪のためのいけにえ、罪過のいけにえの場合も同様に、祭司のものとなります(7節、8節)。ただし、祭司が自分のために奉献したいけにえの場合は、祭司のものとはならず、皮や汚れた部分は灰捨て場で焼かれました(4章12節)。また、穀物の捧げ物については、祭壇で焼かれる部分の残りのものは、かまど、なべ、平なべで作ったものは、すべて司式祭司のものとなり(9節)、その他の穀物の捧げ物は祭司全員のものとなりました(10節)。
⑥の和解のいけにえに関しては、(1)油を入れた輪型のパン、(2)油を塗った種を入れないせんべい、(3)油を混ぜてこねた小麦粉の輪型のパン、(4)種をいれた輪型のパンなどは、ひとつは主への奉献物とされ、他は血を注ぎかける司式祭司のものとなりました。和解のためのいけにえの肉については、その日のうちに食べるべきものでした。そして、右もも肉は司式祭司、胸肉は祭司全員、その他は奉献者に配分されました(31節~34節)。誓願あるいは自発の和解のいけにえの場合は、奉献の日に食べ残した分を翌日食べることが許されましたが、3日目には火で焼かなければなりませんでした(17節)。22節~34節は、祭司に対してではなく、イスラエル人に告げて言え、といわれています。ここでは、いけにえだけでなく、家畜やその他の動物の脂肪と血を食べることが禁じられています(23節~27節)。29節~36節には奉献者が祭司に捧げる部分の祭司の取り分について細かい指示がなされています。
7章の最後は、モーセがシナイ山で主から示された、全焼のいけにえ、穀物のささげもの、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、任職と和解のいけにえについての教えであることが明示されています(37節、38節)。すべての主へのささげ物は、主にあって、計画されたものであり、そのすべての規定は、人間が勝手に考えだしたものではないことが明記されています。つまり、ささげ物は、すべて、主の御計画の中にあり、御子イエス・キリストによる完全な贖いを象徴するものです。シナイ山でささげ物の規定が定められてから、およそ1300年の歳月を経て、キリストによる救いの計画が実現するわけですから、細部に至るまで、明記されているわけです。だからこそ、御子イエス・キリストによる贖いの計画が、神の御計画であったことが鮮明になるわけです。
神様は、旧約聖書にあらかじめ、ご自分の救いの計画を預言として記されただけでなく、救いの型としての幕屋の奉仕が、実際に千数百年もの間、実施されたことを通して、十字架による罪の贖いの意味を示されたことを、驚きと感嘆と賛美をもって、受け留めます。聖書全体が主の救いの計画を示していること、素晴らしいです。きょう、改めて、初めであり、終わりである、主を賛美します。
清宣教師