レビ記10章ですが、アロンの子、ナダブとアビフが主の前に、勝手に自分流のやりかたで香を盛り、主のみこころとは異なる火を捧げました。その結果、主の前から火が出て、彼等は焼き尽くされ、死にました。ある注解者は、レビ記16章1節~2節の記述から、ナダブとアビフは、勝手に聖所の内側つまり、至聖所に入って行こうとしたのだと理解しています。誰かがそれをとどめる前に、主の前から火が出て死んだのだと考えています。
いずれにせよ、主はご自分の聖なることを祭司を通して、現してくださいます(3節)。9章では、23節と24節に記されていますが、大祭司が民を祝福した時、主は火をもって全焼のいけにえを焼き尽くして、主の栄光を現してくださいました(23節、24節参照)。それは祝福でありましたが(9章23節)、しかし、不遜にも自分の考えや自分の力で神の前に出ようとする時、その人には裁きの火となってしまいます。キリストの十字架の救いも、神の民には救いの祝福ですが、キリストの贖いのわざを無視して、自分の業績をもって神の前に立とうとする者には恐ろしい裁きとなります。主は、主が立てられた祭司を通して、ご自分の聖と栄光を現されます(10章3節)。私たちも、主によって選ばれ、この世からクリスチャンとして召されました。主は、私たちを通して、主の聖と栄光を現されます。ナダブもアビフも、主の前に、あるもの(異なる火)を捧げたのです。しかし、捧げることに意味があるのではなく、何を捧げるかがポイントです。捧げることが良いことだとは限りません。捧げることではなく、何を捧げるかが大事です。奉仕、賛美、礼拝を捧げるにしても、その中身がポイントです。外見ではなく中身です。主のみことばに従ったものであることが大事です。
さて、異なる火を捧げたナダブとアビフは、祭司でない近い親戚であったミシャエルとエルツァファンによって宿営の外に運び出されました。祭司職に任命された者は、死体に触れて汚れてはならなかったからです。祭司職についたばかりであり、しかも、そのあと、聖なる食事にあずかることになっていました。汚れたものに触れたものは、決して食べることは出来ませんでした。固く禁じられていたからです。そして、祭司エルアザルと祭司イタマルが、ナダブとアビフの後を引き継ぎました。しかし、エルアザルとイタマルは、自分の兄弟であるナダブとアビフの葬儀に加わることは出来ませんでした(10章6節)。なぜなら、エルアザルとイタマルは、主のそそぎの油を受けたからです(7節)。9節では、モーセは、「祭司たちが会見の天幕に入るときにはブドウ酒や強い酒を飲んではならない」という規定を定めました。ここから推測されることは、ナダブとアビフは、強い酒を飲んで、あのような異なる火を捧げるようなことをしたのかも知れません。
さて、エルアザルとイタマルは、モーセの命じた通りに、民のための全焼のいけにえ、和解のいけにえを捧げました。ひとつひとつのことをなしていきました。しかし、民のための罪のためのいけにえを、自分たちの罪のためのいけにえの場合と同様に、肉と皮を宿営の外で焼いてしまったようです(10章16節)。本来は、民の罪のためのいけにえは、贖いのために祭司が聖なる庭で食べなければなりませんでした。それで、モーセは、エルアザルとイタマルに向かって怒ったのでした。その時、アロンが、エルアザルとイタマルのために執り成しをしました。思いもよらぬ出来事で兄たちを失ったエルアザルとイタマルは、混乱と悲しみの中で、神の毛を乱さず、着物を引き裂かず、忠実に奉仕にあたったのですと執り成したのです(10章6節)。モーセはその言い分を認めました。主は憐み深く、人間の弱さを理解しておられます。故意に主に逆らうことと、誠実に奉仕するなかでの失敗とは別のことです。主を愛する者のためには、すべてを益としてくださいます。
きょう、主に信頼しましょう。主は、私たちの失敗をみて糾弾されるかたではありません。主は、結果ではなく、その動機やプロセスを御存じです。ですから、失敗を恐れずに、主が命じられたことを実行しましょう。
清宣教師