今日の個所は、出エジプト記29章1節~37節に記されていたアロンとその子らの聖別と任職の式を実際に執り行う場面です。ここでも強調されていることは、「主がモーセに命じられた通りにした」ということです。
主の命令に従って、モーセは、アロンとその子らを主の前に立たせ、まず、水で彼らを洗い、次にモーセは、彼らに装束(長服、飾り帯、青服、エポデ、胸当て、ウリムとトンミム、記章つきのかぶりもの)」を着せて整えました(7節~9節、13節、30節)。
次に、注ぎの油をもって、幕屋とその中にあるすべてのものに油を注いで聖別しました。最後に、アロンの頭に油を注ぎました(10節~12節、30節)。それから、アロンの子らに長服、飾り帯、ターバンをつけさせました。
次に、アロンとその子らのために、罪のためのいけにえとして雄牛1頭を奉献しました(14節~17節)。
それから、全焼のいけにえとして雄羊1頭を奉献しました。
次に任職のためのいけにえとして、別の雄羊1頭を奉献しました。その際、モーセは雄羊の血を、アロンとその子らの右の耳たぶ、右の親指、右の親指に塗りました。残りの血は祭壇の回りに注ぎました。さらに、いけにえの脂肪部分全部と右ももの上に種をいれない輪型のパン、油を入れた輪型のパン、せんべい各一個を、アロンとその子らの手のひらにのせ、揺り動かして奉献物としました。モーセはそれを受け取り、全焼のいけにえと共に祭壇で焼きました。モーセは、胸の部分を主への奉献物としたうえで自分の分としました(18節~29節)。
さらにモーセは、大祭司と祭司の装束を着た、それぞれ、アロンとその子らに、注ぎの油と祭壇の血を振り掛けて聖別しました。彼らは任職のいけにえの肉を煮て、かごにあるパンと一緒に食べました。そして肉とパンの残りは火で焼きました(30節~32節)。
任職式の期間は、7日間で、昼も夜も天幕の入り口から出ることは許されませんでした(33節~36節)。
振り返ってみますと、水による全身のきよめ(6節)がありました。私たちクリスチャンも全身を水で清められました。へブル人への手紙10章21節、22節に、次のように記されています。「私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」。
それから、耳と手の親指と足の親指に、血を塗って聖別したことも、考えてみると、いろいろな意味があるように思えます。神の御声を聞く耳が聖別されること、それは、人のうわさ話や評判などに耳を貸すのではなく、神様の御声に耳を聖別することを教えているように思えます。新約聖書には、次のように記されています。「俗悪な無駄話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、彼らの話は癌のように広がるのです。」(テモテ、第2の手紙、2章16節、17節)。また、手や足も、不義のための器ではなく、義の器として、聖別するように教えているように思います。新約聖書には次のように記されています。「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ人への手紙、6章13節)。
以上、見てきましたが、祭司の任職に就いても、一つ一つ、順番があり、細かい規定があります。つまり、私たちクリスチャンが、神の祭司として、人々を執り成すためには、新約聖書に記されているように、信仰、義認、聖化という順を追って整えられる必要があります。
きょう、主よ、私を整えて下さい。私の心、手、足を清めて下さい。私の全身全霊をもって、主に仕えさせてください。
清宣教師