20章では、すでに19章と20章に記した罪を犯した者に対する刑罰が記されています。子供を偶像神であるモレクに捧げる者は、石打ちで死刑にするように規定されています。異教の民たちは、こどものいのちを偶像に捧げることにより、偶像への信仰を表すという宗教儀式を行っていました。しかし、それは、こどもたちにいのちを与えられた創造主の主権を侵害するものでした。イスラエルの民はそのような異教の習慣を絶対に取り入れてはならないという意思表示です。主なる神は、こどものいのちを偶像に捧げるのは、石打ちによる死刑にあたるということを明確に示されました(2節―5節)。さらに、霊媒や口寄せに頼るものたちも、悪霊に関わることであり、神がその者たちを民の間から断たれると宣言されました。また、男女の霊媒や口寄せは、石打ちにより死刑にすべきであると定められていました(27節)。
父母を呪う者、姦通した男女、義母を犯す者、嫁を犯す者、男同士で寝る者も、みなふたりとも、必ず殺されなければならないと定められています(9節―13節)。さらに、母とその娘を同時にめとる者は二人とも火刑にすべきこと、獣姦を犯す者は、本人も動物も必ず殺されなければならないと定められています。異母姉妹あるいは異父姉妹を犯す者は同族の前で断ち切られる。生理期間中の女を犯す者は二人ともその民から断たれる。おばを犯す者は二人とも子を残さずに死ななければならない。兄弟の妻を犯す者も彼らは子のないものとなる、と記されています(17節―21節)。これらの規定は、聖なる民が異教の風習にならって、祝福の秩序を無視して、情欲のままに生きることを禁じています。創造主が定められた祝福の道は、聖なる道であり、本質的に神のかたちに造られた人間が、本来の神の似姿として歩むべき道を示すものです。
22節~26節にかけては、再度、神の民は、聖なる民として生きることを求めています。これから入ろうとしている神の約束の地とは、異教の民たちが、自分たちの欲望の限りを尽くして、腐敗と堕落と罪に満ちた土地です。それゆえ、神はその地に住む民を一掃して、聖なるものとしようとしているのです。もし、イスラエルの神の民が、その異教の民たちのように堕落し、欲望のままに生きるなら、当然、神の民と称してはいても、その土地から一掃されるものとなるのです。だから、絶対に勘違いしてはならないのです。自分たちが神に選ばれた民であるから何をやってもよいというのではないということです。その異教のたみたちの風習や汚れをまねてはいけないのです。それらを取り入れてはならないのです。汚れた者となってはいけないのです。聖なる民であり続けることが、祝福の道を歩み続けることができる道なのです。ですから、ここではくどいほど、「あなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。」(23節)と戒めています。
クリスチャンもまた、絶対に誤解してはならないのです。自分たちは神に選ばれた特別のものだから、何をしても赦されると考えてはならないのです。それは主なる神を辱めることです。特別の者(神の作品)であるから、特別の生き方(神の栄光を表す人生)をするのです。それこそ、全地が主を知り、主の栄光を見る機会を提供する存在なのです。
きょう、私たちを聖別して下さい。邪悪なものから遠ざけて下さい。主の御名により、私たちの内にある、さまざまな欲望を断ち切って下さい。聖霊によって満たしてください。聖霊の実を豊かに実らせてください。
清宣教師