26章には、まず、偶像礼拝の禁止、安息日の順守などの規定が繰り返し、述べられています。それから、もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、私の命令を守り、それを行うなら、・・・・神の祝福の約束のことばが続いています。これは、当時の契約文書としてのスタイルにならったものでした。律法を守るなら祝福が、反対に、律法に背くなら呪いを与えられる、ということが記されています。
「あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。」(1節)。もともと偶像とは、自分のために造るものです。人々は神様のために偶像を造る、と考えますが、本質的には、自分のために造る物なのです。それは、創造主を礼拝することにはなりません。偶像を造らないことは、創造主を尊ぶことを意味します。創造を記念する安息日を守ることも、創造主なる神を尊ぶことを意味します。一方、民たちが主の律法に不従順であるなら、呪いと災いが、民たちの上に下るのです。誰でも、初めから神に反抗する者はいないと思われます。ところが、神の祝福を受けた人間は、次第次第に、自分の力で祝福を得たかのように錯覚して、積極的に律法を守るという姿勢を崩してしまいます。ところが、そのような状態がしばらく続くと、今度は、自分の力や判断力を過信するようになり、主の律法を拒否し、さらには、主の律法を忌み嫌うまでに、高慢になって行くのです。そこで、主がなされることが力による介入です。創造主に背を向けて自分勝手な生活をする人たちに対して、恐怖を臨ませ、心をすり減らさせ、さらには、生活が脅かされ、外敵によって打ち負かされるのです。それでも、頑なに、悔い改めないなら、「あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする」(19節)といわれます。それで、地は産物を生じることができなくなります。それでも、悔い改めて、主に立ち返ろうとしないなら、さらに、7倍も重い刑罰が下るのです。それでも、悔い改めることをしないで、反抗するなら、敵の剣が襲い、疫病が蔓延し、敵に占領されるようになるのです。それでも悔い改めて、主に立ち返ろうとしないなら、さらに7倍もの刑罰が襲うのです。町は敵によって囲まれ、甚だしい食糧不足により、あるいは、甚だしい飢饉により、自分たちの子どもの肉を食べるような悲惨な状況に陥るのです。そして、遂には、廃墟となり、聖所も荒れ果ててしまうのです。敵国の者ですら、この廃墟をみて、恐れに満たされるのです。民はみな、散らされて国を失い、敵の国々の中に住むようになるのです。こうして、イスラエルの民の相続の地は、強制的に神の安息の年を迎えるのです。「その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。」(34節、35節)。
しかし、忘れてならないことは、これらの呪いと刑罰は、イスラエルの民を滅亡させるためではなく、あくまでもお灸をすえて、主に立ち返える機会を与えているのです。ですから、主はこのように言われています。「それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」と言われるのです。
主は、民たちが律法を軽視し、無視する時に、ひとつひとつ、段階を経て、主の刑罰を与えられます。愛のムチです。レビ記26章に記されていることは預言的なことばでもあります、実は、このあとの民数記、士師記、サムエル記、列王記、歴代誌などにおいて、イスラエルの民の歴史は、主のことばの通りに実現しているのを見ることが出来ます。主はみことばを通して語られますが、イスラエルの歴史を通しても語られるのです。
きょう、主よ、高慢の罪から私たちを救い出してください。自分の力を誇ろうとする利己的な欲望から解放して下さい。清宣教師