まず、聖所の中の燭台について、主はモーセを通して、アロンに命じられました。おそらく、確認のためであったと思われます。この金の燭台は、以前、主が命じられた通りに打ち物つくりで、細部まで主の命に沿って造ったものでした。この金の燭台は7つの灯火皿で、聖所の内を照らすためでした(1節―5節)。そのあと、レビ人の奉献について記しています(5節―26節)。その手順が詳しく記されています。まず、レビ人たちをイスラエルの民たちから選び分け、罪の清めの水を振り掛けました。レビ人たちは、全身にかみそりをあて、その衣服を洗い、身を清めました。次に、若い雄牛2頭と穀物の捧げ物を整えました。1頭は罪のためのいけにえ、もう1頭は全焼のいけにえとして捧げるためでした。こうして準備を整えたあとで、モーセは、レビ人たちを天幕の前に近づかせました。一方で、モーセは、イスラエルの全会衆をも天幕の前に集めました。それから、さらに、レビ人たちを主の前に近づかせました。イスラエルはレビ人たちの上に手を置きました。それから、アロンはレビ人たちをイスラエルからの主への奉献物として主の前に捧げるためでした。イスラエル人がレビ人たちの上に手を置くことによって、レビ人は全会衆からの奉献物として捧げられたのです。レビ人たちは、用意した雄牛の頭に手を置き、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえとして捧げました。こうして、贖いが終わった後、モーセはレビ人たちをアロンとその子らの前に立たせて、主からの賜物として、アロンとその子らに、手渡したのです。こうして、レビ人たちは、正式に、主のものとなったのです(16節)。それは、聖所に直接仕えることができなかったイスラエルの民たちの代わりに、レビ人たちが主に仕える者となるためでした。また、アロンやその子たちの祭司の指導のもとで、主に仕えるためでした(20節ー22節)。さらに、聖所の奉仕に関わる者たちの年齢の制限について述べられています。4章では30歳から50歳の者たちが会見の天幕で務めにつき、仕事をすることができる、と定められていました。それで、8章24節に記されている25歳以上という条件は、おそらく、25歳から30歳までは見習期間ということであると理解されています。定年は両方ともに50歳となっています。幕屋の奉仕は、相当、重労働であったと思われます。ただし、定年を過ぎても、補助的な仕事は許されていました(25節、26節)。こうして、ここまで読んでくると、主に仕えるということが、どれほど、重要な任務であったかが理解できます。主によって選ばれた者だけが、それぞれの任務を担うことを許されています。じつは、私たちクリスチャンも、キリストに仕える道を自分で選んだのではありません。主イエス様が、次のように宣言されています。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネの福音書15章16節)。このイエス様のことばは、とても、大きな意味をもっています。それは、私たちが、主に仕える者として、一所懸命、任務を果たしているときは分りませんが、失望落胆の泥沼に足を取られ、疑いの蟻地獄のなかに滑り落ちた時に、もの凄い力を発揮するみことばです。「お前はダメだ」というサタンの巧妙なささやきに、あわやノックダウンされそうになった時に、すべてをひっくり返す、もの凄い力を発揮します。イエス様が語られることばを聞くのです。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。・・・」。すべての任命責任はイエス様にあります。しかも、イエス様は決して間違うことのないお方なのです。私ではなく、イエス様が選ばれたのですから。疑う余地はないのです。間違う余地はないのです。きょう、主が選んでくださったことを覚えて感謝します。主の選びには間違いがないことを改めて感謝します。私ではなく、主が選ばれたのです。主に信頼します。感謝します。
清宣教師

 

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