9章に入りました。前半の1節~14節では、ひと月遅れの過ぎ越しの祭について記しています。エジプトの国を出て第2年目の第1月に、主はシナイの荒野でモーセに告げられました。「イスラエル人は、この月の十四日の夕暮れ、その定められた時に、過ぎ越しのいけにえを捧げなければならない。また、すべてのおきてとすべての定めに従って、それをしなければならない。」そこで、モーセは、イスラエルの人たちに、これを守るように命じました。しかし、それを実施するなかで、ひとつの問題が生じました。それは、イスラエルの人たちの中に、人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々がいたことです。その人たちは、モーセとアロンに、この問題を持ち出しました。「私たちは、人の死体によって身を汚しておりますが、なぜ定められた時に、イスラエル人の中で、主へのささげ物をささげることを禁じられているのでしょうか。」そこで、モーセは、主に伺いました。その結果、主が言われたことは、彼らは、ひと月遅れで、第二月の十四日の夕暮れに、過ぎ越しの祭をするようにとのことでした。ただし、もし、身がきよく、また旅にも出ていない者が、第1月の定められた日に、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならないことも、併せて示されました。また、この過ぎ越しのおきてと、その定めは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、おきては一つである、と言われました。後半の15節~23節では、旅を導く雲と火の柱について記されています。この9章15節~23節の記事は、シナイ山のふもとを出発する前に書かれたものですが、旅立ちも宿営も、「主の命令によって」(18節に2回、20節に2回、23節に3回、合計7回記されています)実施されたことが、繰り返し、強調されていることがわかります。これらの記事は、後になって、出発以来のことを振り返って、加筆したものと思われます。出エジプト記40章34節~38節に、すでに記されていることですが、会見の幕屋が完成した日に、主の臨在の象徴である雲の柱が幕屋を覆いました。それは夜になると、火のように見えました。それ以来、いつも、昼は雲の柱、夜は火の柱として、幕屋の上に、主の臨在のしるしがありました。イスラエル人は、雲が幕屋の上に留まっている間は、宿営し、雲が旅立つと、昼でも、夜でも、旅立ちました。民数記では、これらの記述に加えて、さらに詳しく記録しています。「2日でも、1月でも、1年でも、雲が幕屋の上に留まっていれば、宿営を続けました。ただ、雲が上がった時だけ、旅立ちました」。つまり、「彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った」のです(23節)。この記述は、なんと、すがすがしく、さわやかで、気持ちの良いものでしょう。私たちも、主の御声を聴き、主のみこころの通りに、とどまり、あるいは、前進することが出来るなら、なんと幸いな人生となることでしょう。イエス様は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束して下さいました。つねに、前進とは限りません。あるときは、ずっと、とどまる日が続くのです。ある場所に留まり続けることは忍耐を要することです。目的地があるわけですから、本来は、そこに早く着きたいという気持ちがあります。それにもかかわらず、留まることが神の御計画の一部であるというのです。まさに、「順境の日には喜び、逆境の日には考えよ」ということですね。
植物の成長も、つねに、成長しているわけではありません。春から夏にかけて、良く成長しますが、秋から冬にかけては成長をストップさせます。こうして、外側を成長させ、次に、中身を充実させるという繰り返しです。もし、成長だけだったら、内部が充実しないので、折れやすくなります。また、成長している時は、その植物にとって不利な環境がくるとダメージを受けてしまいますが、成長していない時は、ダメージを受けにくいのです。実際、目に見える地上部(茎や葉など)が成長をストップしているときは、目に見えない地下部(根)が成長して、さらなる成長の備えをしているのです。成長するのも、留まるのも、祝福の時です。今日、1日の歩みを、主の御手にお委ね致します。清宣教師

 

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