11章全体は、創造主によるマナとうずらの奇蹟的な供給について記しています。しかし、それは民たちの信仰によるものではなく、民たちの不信仰がもたらしたものでした。また、今日の個所には、不平、不満、つぶやきが生活の習慣の一部となってしまっている民たちを導く指導者モーセの苦悩が表現されています。1節には「民はひどく不平をならして主につぶやいた」(1節)と記されています。そして、彼等は、激しい欲望にかられて大声で泣き叫びました。「ああ、肉が食べたい。」しかも、こともあろうに、エジプトでの奴隷の生活を持ち出して、「あのときは良かった。いまは、こんなマナしかない」と言い出したのです。しかも、少数ではなく、それぞれの天幕の入り口でその家族たちが泣いて訴えたのです。このような事態を迎えて、モーセは主に対して訴えました。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、あなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。・・・私だけでは、この民全体を負うことは出来ません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないで下さい。」(11節)。このモーセのことばを読むとき、指導者としての苦悩が痛いほど伝わってきます。そこで、主は、指導者モーセに答えられました。指導者としてのあなたの重荷の一部を担う者として70人の長老を任命すること、そして、ひとりひとりに霊を授けることを約束されました。それから、主は、すべての民たちに飽きるほどの肉を与えることを宣言されました。そこで、モーセは、それはとても無理ではないだろうかという疑問を持ち出しました。しかし、主は「主の手は短いだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる」と言われました。そこで、モーセは民たちに主のことばを伝えました。その時、主の臨在の雲が現われて、モーセの上にある神の霊をとって、それを70人の長老たちに分け与えました。こうして、長老たちも神の霊によって預言をすることが出来るようになりました。ところで、イスラエルは、神の民とはいうものの、名ばかりの神の民でした。これまでも、エジプトでの奇蹟、紅海での奇蹟、荒野での奇蹟を経験していながら、それを自分たちの信仰の糧とすることなく、ただただ、その場その場の問題に対して、指導者に不平不満をぶちまける民でした。それに対して、主は再び、主のみわざを現されました。大風をもって地中海の向こうからウズラの大群を呼び寄せて、イスラエルの宿営の上に落としました(31節)。彼らは、うずらを集めてはその肉を食べました。しかし、そのつぶやきの罪のゆえに、激しい疫病によって打たれて、大勢のものが死に、そこに埋められました。そのところは、「欲望の墓」と名付けられました。イスラエルの欲望の罪の記念のためです。この箇所を読んで、多くのことを教えられます。「欲望の墓」とは、映画の題名にでもなりそうな感じがします。私たちは、創造主なる神を信じていると告白はしていても、多くの点で、欲望のゆえに、つぶやいてしまうことの多いものです。ある意味、人間の墓というのは、「欲望の墓」と呼んでも間違いではないと思います。結局、人間は例外になしに、それぞれの欲望のゆえに人生の最期を迎えるといっても過言ではないと思います。一方、視点をかえてみると、創造主なる神のさばきのゆえに、「欲望の墓」というピリオドがあたえられるというのは、恵みでもあります。もし、欲望のままに永遠に生きるなら、なんの希望もありません。みな「欲望の墓」というピリオドが与えられるので、そこに希望があります。キリストの十字架は、私たちの欲望の墓でもあります。そして、キリストの復活のいのちは、私たちに御霊による人生を与えます。
清宣教師

 

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