雇われ呪術者のバラムは、モアブの王バラクに祭壇を準備するようにいいました。そして、バラクはバラムの言った通りにしました。裸の丘というところで神はバラクの口に神のことばを置かれました。それは、呪いのことばではありませんでした。むしろ祝福のことばでした(7節~10節)。そこで、モアブの王バラクは、ただ、イスラエルの宿営の一部だけが見えて全体を見ることが出来ない場所(13節)にバラムを連れて行き、イスラエルの民を呪うように嘆願しました。相手の一部だけしか見せずに、味方に引き込んで、相手を呪わせようとするのは悪者の策略のひとつですね。
教会の兄弟姉妹の間柄でも、残念ですが、自分に不利なことは隠して、自分に同情してくれるように、一部だけをお話しする場合があります。そして、味方に引き込んで、あの人はなんてひどい人だろうと、という判断をさせてしまうのです。聖書は、このようなことを深く戒めています。それは、兄弟姉妹を偽りの泥沼に誘い込むことだからです。生まれつきの肉の性質は、間違った同情、間違った連帯意識で満足してしまいます。しかし、聖霊に満たされた人は、そのようなうわさ話に加わってはならないのです。日々、聖霊様によって満たしていただかないと、その空しさが、私たちを人間関係によって満たそうと誘惑します。そこで、不健全な人間関係に入ってしまうと、相手のひとのことばで判断してしまう罠に陥ります。でも、サタンの策略で、一部しか見せられないで、軽々しく判断したら、とんでもない失敗をしてしまいます。偏見を捨てて、聖霊様により、目を上げて、神が見られるように見ることが大事です。全体像を把握することです。
さて、祭壇を築いてのち、主から与えられたことばは、イスラエルを祝福することばでした。そこで、バラクは、今度はぺオルの頂上に連れて行くことにしました。なぜなら、「もしかしたら、それが神の御目にかなって、彼らを呪うことができるかもしれません」(27節)と考えたからです。ここで、バラクは、自分の計画が失敗すると、場所が悪いと考えました。計画通りにいかないと、方角が悪い、場所が悪いとか、呪術者の考えることです。
これは、私たちのまわりの人たちが考えるやり方でもあります。そのために、占い師がおり、巧妙に騙されてしまうのです。例えば、新聞に出ている運勢占い、あるいは、テレビに出てくる星占いなどがあります。何かの拍子で、そのような運勢に頼ったり、気を持ち直すために利用したりすることがあります。しかし、それは、申命記でも固く禁じられていることです。創造主なる神の御手の中にあることを信じないで、悪霊の働きによって自分自身を取り戻そうという方法です。これは、創造主が忌み嫌われる手段です。「あなたは、わたしの目には高価で尊い。」と主が言われるのです。それなのに、運勢や占いで、自分の将来について一喜一憂することは間違っています。あなたは、創造主の愛の中心を生きる存在です。占いや麻薬や賭け事などに心を奪われることなく、神の子どもとして、堂々と生きることを、主は望まれます。
感謝な事は、誰が呪おうとしても、主が祝福されようとしている者たちを呪うことは出来ないことが分ります。その結果は、明日の24章で明らかになります。あなたは、神様の祝福のなかにあります。誰も、あなたを損なうことはできません。あなたは神の御子キリストのいのちの代価をもって贖われた人です。あなたは、神のこどもです。堂々と生きて下さい。
清宣教師