少し前の民数記25章には、ミデアン人の女たちの誘惑により、イスラエルの指導者や民たちの一部が、バアル・ペオルの偶像を拝む罪を犯した事件がありました。そのとき、25章16節において、主はモーセに告げられました。「ミデヤン人を襲い、彼らを打て」。そして、きょうの31章の1節で、モーセの人生最後の任務のひとつとして、「ミデヤン人にイスラエルの仇を報いよ。」という主からの命令を受けました。「そのあと、あなたは、あなたの民に加えられる」と主は言われました。そこで、モーセは、一部族ごとに千人の戦士たち、12部族で1万2千人の戦士たちを招集しました。それから、祭司エルアザルの子のピネハスを呼び寄せて、聖具(聖所の器や祭司の式服などのこと)とラッパをその手に持たせて、ミデアン人との戦いに送り出しました。そして、イスラエルの戦士たちは、ミデヤン人と戦い、男子たちをみな殺しました。それから、ミデヤン人の5人の王たちを殺しました。その中には、25章15節に記されているコスビの父親のツルの名前が含まれています。
また、あの雇われ呪術者のペオルの子バラムを剣で殺しました。22章から24章まで、バラムのことが記されていますが、24章の最後には、「バラムは立って自分のところへ帰っていった。」と記されています。22章から24章までの個所では、バラムはイスラエルを呪うことをせず、かえって祝福しました。それは雇い主のバラクを怒らせることになり、バラムは無報酬で自分の町に帰ったと記されていたのです。ところが、きょうの25章では、突然、一転して、イスラエルの戦士が、バラムを処刑した記事が載っております。そこにはわけがあったようです。雇われ呪術者バラムは、あのときはイスラエルの民を呪うことを主が許されなかったので、呪いませんでした。しかし、バラムは、そのまま、無報酬で帰ったのではなく、ミデヤンの女性をもちいて、イスラエルの民を堕落させる方法をバラムに進言したようです。それで、報酬を手に入れたようです。なぜなら、新約聖書のペテロの手紙、第2、2章15節には、「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。」と記されています。また、ユダの手紙11節には、「忌まわしいことです。彼らは、・・・利益のためにバラムの迷いに陥り」と記されています。バラムは不義の報酬を愛したため、結局は裁きを受けることになったのです。さて、イスラエルの戦士たちは、獣や家畜、財産を奪い、それにミデヤン人の女や子供を虜にして帰ってきました。それを見たモーセは怒りを燃やしました。なぜなら、イスラエルの民たちを偶像礼拝に誘ったのは、ミデヤン人の女性たちだったからです。そこで、モーセは、男と寝ることを知らない若い女だけを残して、残りの者たちを処刑するように命じました。また、祭司エルアザルに命じて、戦士たちが身を清めてから宿営に入るように指示しました。さらに、敵から分捕った物を、戦に参加した全兵士たちと、宿営に残っていたすべての民との間で、平等に、二分するように命じました。そこで、すべての分捕り物について、戦士たちと全会衆に二分しました。また、レビ人や祭司たちに捧げる分を定めました。一方、軍団の指揮官たちは、神の御業に感謝して、自発的に、自分たちの分捕り物から捧げ物をしました。自分たちの部下を点呼した結果、今回の戦いで、一人の兵士も失うことがなかったことが分かったからでした。指揮官たちは、あふれる感動と感謝のゆえに、自発的な捧げ物をしたのです(48節~50節)。
きょう、警告されていることがあります。それは、不義の報酬を愛したバラムのようになってはならない、ということです。クリスチャンが「お金がすべてである」という人生観を持つことは稀であると思います。しかし、クリスチャンでも、結婚、職業、進路の選択など物事の判断にあたって、お金(経済的な条件)を優先順位の第1に置いてしまうという失敗は少なくありません。御霊に満たされたクリスチャンとして神の国と神の義を第1にして生きることが、私たちの使命です。
清宣教師