ここまでの歩みを振り返ると、イスラエル人はモアブの王シホンと戦い、勝利をおさめました。そして、その支配下にあったアルノン川からヤボク川までの領域を占領しました(21章24節参照)。しかも、21章31節では「イスラエルはエモリ人の地に住んだ」と表現されています。今までは荒野を行軍し、宿営するという表現でしたが、ここでは「住んだ」という表現がなされています。このような状況の中で、ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜をもっていたこともあり、ヨルダン川の手前のヤゼルの地とギルアデの地を見て、そこに住みたいと考えたようです。それで、ルベン族とガド族の代表者が、モーセと祭司や会衆の上に立つ者たちの所に来て、「この地を所有地として与えて下さい」と願いました。それに対して、モーセは、あの過去の出来事を思い起こさせました。あの38年前のカデシュ・バルネアでの出来事です。イスラエルの指導者たちが、民の士気をくじき、約束の地に入ることを妨げたために、神からの裁きとして、イスラエルの民たちが、荒野を40年間もさまようことになったのです。その再現ではないかというのです。もし、ルベン族とガド族の願いを聞き入れるなら、他の部族も、ヨルダン川を渡らずに、もう、この地で良いと言い出すかも知れません。モーセは強いことばで締めくくりました。「今、あなたがた罪人の子らは、あなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りをさらに増し加えようとしている。あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたはこの民すべてに滅びをもたらすことになる。」(1節~15節)。これに対して、ルベン族とガド族の代表者は、私たちは、この場所に家畜のために囲い場をつくり、子供たちのために町々を建てます。しかし、私たちはヨルダン川を渡り、先陣として、戦いに参加し、約束の地をことごとく占領するまでは、私たちの家に帰りません。ヨルダンの向こうの地では、私たちは相続地を持ちません、と提案しました(16節~19節)。このルベン族とガド族の強い主張に対して、モーセは、ある意味、妥協することになります。あなたがたが、主張したように、先陣として戦いに参加して、約束の地をことごとく占領したのちに、家に帰るのであれば、ヨルダンの東側のギルアデの土地を相続することを許す、と約束しました(20節~32節)。こうして、モーセは、ガド族とルベン族とマナセの半部族に、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、その町々のある国と周辺の地の町々のある領土を与えました。そこで、ガド族、ルベン族、マナセの半部族は、ヨルダン川の東にある町々や村々を攻め取りました(33節~41節)。モーセが妥協したのではないか、と記しましたが、ヨルダン川の西側の地域が、12部族の約束の地であったと思われます。ここで、ヨルダン川の西側と東側に12部族の相続地が分れたことは、のちのち、統一の妨げとなりました。例えば、これに続く、ヨシュアの時代、さらにそのあとの士師の時代に、ヨルダン川の西に定住した10部族が、他民族との戦いに巻き込まれた時に、ヨルダン川の東側に住んていたルベン族やガド族の協力を得られなかったことが、しばしばありました。さらには、やがて、ルベン族やガド族は人々の記憶から消えてしまうのです。
今日の個所を読んで、あのロトの選択を思い出しました。創世記13章5節~11節に記されています。アブラムは、神に委ねて、甥のロトに選択権を譲りました。アブラムの霊の目には、どこもかしこも、主の祝福の地に見えたに違いありません。一方、ロトは、年長者のアブラムに選択を譲ることをせず、肉の目で選択しました。高地は砂漠のような荒れ野であり、低地は緑の沃野であったので、低地全体をことごとく、自分の所有としました。しかし、やがて、そこは、暴虐に満ちた地であり、神の裁きにより灰塵(かいじん)に帰してしまうのです。目に見えるところだけで判断する時に間違ってしまいます。御霊に満ちたクリスチャンは、肉の目で見ただけで判断する人ではありません。神様のみこころは何かを考えて判断する人です。
清宣教師