ここでは、イスラエルの民が、エジプトから出て、モアブの草原に至るまでの旅程を記しています。
2節には、「モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした」と前書きをしています。3節~49節までをまとめると、以下の通りです。
彼らは第一月、その月の十五日に、ラメセスから旅立った。イスラエル人はラメセスから旅立ってスコテに宿営し、スコテから旅立って荒野の端にあるエタムに宿営した。以下、エタム→ピ・ハヒロテ→マラ→エリム→葦の海のほとり→シンの荒野→ドフカ→アルシュ→レフィディム→シナイの荒野→キブロテ・ハタアワ→ハツェロテ→リテマ→リモン・ペレツ→リブナ→リサ→ケヘラタ→シェフェル山→ハラダ→マクヘロテ→タハテ→テラ→ミテカ→ハシュモナ→モセロテ→ベネ・ヤアカン→ホル・ハギデガデ→ヨテバタ→アブロナ→エツヨン・ゲベル→ツィンの荒野、すなわちカデシュ→エドムの国の端にあるホル山→ツァルモナ→プノン→オボテ→モアブの領土のイエ・ハアバリム→イイムから旅立ってディボン・ガド→アルモン・ディブラタイム→アバリムの山々→エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原に宿営した。ヨルダンのほとり、ベテ・ハエシモテからアベル・ハシティムに至るまでのモアブの草原に彼らは宿営した。
これらは、前書きにあったように、出発地点をもとに書き記しています。神の約束の地であるカナンという最終目的地がある限り、途中の宿営地はみな、出発地点となるのです。そこに留まることが目的ではなく、そこは、一時的な宿泊地です。必要な休みを過ごしたならば、必ず、そこを出発しなければならないのです。アブラムのお父さんのテラは、アブラムと共に、神様から「約束の地へ行け」との啓示を受けました。そこで、テラは出かけました。創世記11章31節~32節に記されています。「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。・・・テラはハランで死んだ。」これを見ると、アブラムの父テラは、神様から啓示をうけて出発したのですが、約束の地であるカナンまでの旅の途中、ハランというところで、一休みしたまま、そこに住みつき、死んでしまいました。それで、テラのような人をハラン信者などと呼んでいる人がいます。
御霊に満たされたクリスチャンは、この地上での生涯は、旅人であり、寄留者としての生涯であることを自覚しています(へブル人への手紙11章13節参照)。最後まで、目標を目指して走り続ける人です。いま、私たちは、それぞれの出発地点にいるのです。休みも必要です。留まることも必要です。しかし、やがて、次の目標を目指して、出発する時が来るのです。イエス様の御姿に似る者となるという最終目標があります。ですから、日ごとに御霊によって変えられる必要があります。50節~56節は、モアブの草原で、主がモーセに語られた言葉です。①その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕すること、②あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。という命令でした。そこには、警告も付け加えられていました。③もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。このあと、イスラエル民がたどった実際の歴史は、ヨシュア記、士師記に記されています。そこには、イスラエルの民の背信と神による裁き、イスラエルの民の悔い改めと神による回復というサイクルが延々と記されています。このサイクルから抜け出すには、御霊によって生まれるしか、方法はないのです。ですから、使徒パウロは、私たちクリスチャンに対して、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ書5章16節)と命じています。きょう、父なる神様、御霊によって私たちを満たしてください。
清宣教師