冒頭、「欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主にいけにえとしてささげてはならない。それは、あなたの神、主の忌み嫌われるものだからである」(1節)と記されています。創造主にとって、欠陥のある牛や羊というのは、すべてが主の作品であるとするなら、欠陥のない牛や羊と変わらない、まったく、同じ価値をもっていると考えられます。それにもかかわらず、欠陥のあるものを主に捧げることは、主の忌み嫌われるものであると、なぜ、記されているのでしょう。
おそらく、それは、人間の価値基準にあると思います。人間にとって、欠陥のある牛や羊は、価値のないもの、あるいは、価値が低いものです。例えば、家畜の売買において、値段がやすく見積もられるのが現実であると思います。つまり、欠陥のある牛や羊が主に忌み嫌われるのではなく、主に捧げるのに、価値がないもの、あるいは、価値が低いもので済ましてしまおうとする人間の打算、貪欲が、主に忌み嫌われる捧げ物である理由であると考えられます。
次に、争い事が起こった場合の処置が、8節~13節に記されています。その中で、あなたのさばきかねるものであれば、「ただちに」あなたの神、主の選ぶ場所に上り、・・・と記されています(8節)。争いごとに関しては、聖書は、その争いの解決をいたずらに延ばすことなく、「ただちに」解決することを勧めています。また、判決を聞いたなら、右にも左にもそれることなく、その判決に従うべきであると命じています。私たちも、争いが起こったら、ただちに、主の前にその問題を報告することです。そして、主からの回答をいただいたなら、その通りに実行することです。
後半は、王に関することです(14節~20節)。王は外国人であってはならず、必ず、同胞の中から選ぶべきことが命じられています。また、王は、馬(軍事力)に頼るのではなく、主に頼らなければならないこと。あるいは、王の権威を利用して、多くの妻をもってはならないと命じています。いずれの戒めも、王として権力の座に着いた者が、避けられない誘惑です。そして、実際、最も知恵があると言われたソロモン王でさえ、結局、馬に頼り、多くの妻をもち、最終的に、この世の偶像礼拝に陥りました。主は、最も適切な戒めを、王に与えています。しかも、王政が敷かれるずっと前に、イスラエルの民に命じられています。
イスラエルの王の義務の一つとして、「自分のために、主のみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない」(18節、19節)と命じられています。それは、「王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため」(20節)と記されています。イスラエルの民は、主の至れり尽くせりのアドバイスの上に、国を建てるべきでした。しかし、このあとの士師記、サムエル記、列王記などを読むと、主の戒めから遠く離れてしまい、滅びを招いた歴史が描かれています。人間中心主義の世の価値観のもとでは、真の平和も、真の幸福もありません。創造主なる神のみことばという価値観のもとで、真の平和、真の幸福が建てあげられるということが、わかります。
天の御国は、創造主なる神が治められる永遠の御国です。私たちは天の御国の住民としての永久ビザをいただいております。この世がすべてではなく、この世の人生を終える時、私たちには素晴らしい御国が備えられているのです。将来を心配することなく、この世での使命を果たしましょう。
清宣教師