ヨシュア記6章では、カナンの大都市エリコが陥落した記事を読みました。しかし、その大きな勝利の背後に闇が忍び込んでいました。今日の7章では、小さな町アイの攻略に失敗してしまったことが記されています。それはイスラエルの民の一員であるアカンが、エリコに攻め込んだとき、自分の欲を治めることが出来ないで、聖絶のものに手をだして、自分のふところにいれてしまったことが原因でした。聖絶とは、特別に主なる神に捧げられるべきものであり、神の所有となったものです。アカンは、多くの戦利品の中から、美しい外套や、銀や金の延べ棒などを盗んで、自分の天幕に持ち帰り、地面を掘って隠したのです。この罪は、イスラエルの民全体に、災いをもたらす結果となりました。それらのことは、あとで、分ることですが、それとは知らずに、ヨシュアは、次の目標であるアイの町を攻略するために、斥侯を遣わしました。斥侯たちは、アイの町を探ってから、ヨシュアのもとに帰って報告をしました。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるとよいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」とヨシュアに進言しています。「彼らはわずかなのですから」という言葉に、ヨシュアも民たちも共感を覚えたようです。どうやら、イスラエルの民全体は、大都市エリコの陥落により、気持ちが高揚して、なにか自己過信のようなものが生じたようです。アイの町に遣わされた斥侯たちも、民たちも、自分たちの力でエリコの人たちに勝利したような錯覚に陥っていることが見て取れます。しかし、勝利は、主なる神の御手によるものでした。それは、敵の人数が大勢であろうと、少人数であろうと変わらないことです。そして、そのあと、実際、アイにおいて敗北したのは、そのことを示しています。ヨシュアは斥侯たちの進言に従って、およそ三千人の戦士たちをアイの町に攻め上らせました。しかし、結果は散々でした。アイの人々が、イスラエルの戦士たち、約36人を打ち殺し、敗走するイスラエルの軍勢を追撃しました。それで、イスラエルの民の心はなえてしまいました。全く、予期しなかったイスラエルの敗北に、ヨシュアは、着物を裂き、長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶって、主に訴えました。それに対して、主は問題の所在を明らかにするために、ひとつのことをするように命じられました。それは、イスラエルの民の中から、くじ引きで、主に対して罪を犯したものを選び出すということでした。そして、くじ引きの結果、ひそかに聖絶のものを盗んだ、アカンの仕業が民たちの前に明らかとなりました。聖絶のものを自分のものとしたイスラエルは、自分自身を聖絶のものとしてしまったのです。ですから、自分たちの中から聖絶のものを取り除くために、ゼラフの子アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに、彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行って、みな、火で燃やし尽くし、石を投げて、石くれの山を積み上げました。こうして、イスラエルは、自分たちのうちから、聖絶のものを取り除きました。そこは、アコルの谷と呼ばれるようになりました。
今日の個所では、共同体としての罪が取り上げられています。確かに、個人の罪というものがありますが、ここでは、イスラエルの民が共同体として、神と契約を結び、異邦の民との戦いの中にありました。これは個人の戦いではなく、共同体としての戦いでした。それゆえ、アカンの罪は、共同体としての罪として、神の前に取り上げられました。そして、共同体としての行動により、共同体としての罪が取り除かれました。
今日では、教会が、神の前に共同体としての責任を委ねられています。私たちの罪が教会全体に悪影響を及ぼすことがあるのです。きょう、私たちも教会という共同体のひとりひとりが、罪から守られるように祈りましょう。清宣教師