すでに、カナンへの入国前から、主によって告げられていた「逃れの町」について、再び、ここで、ヨシュアを通して、主が語られています。主にとって、このことは、とても大事なことであることが分ります。主は、実際に、その町を設けることを指示されました。それで彼らは、ヨルダン川の西側では、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュ、エフライムの山地にあるシェケム、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンの3つの町を、逃れの町として聖別しました。また、ヨルダン川の東側では、ルベン部族の高地の荒野にあるベツェル、ガドの部族のギルアデのラモテ、マナセ部族のバシャンのゴランの3つの町を、逃れの町として聖別しました。あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込んで、復讐者の手から逃れるための町でした。ただし、そのものは、逃れの町から外へ出た場合は、いのちは保証されませんでした。その町から出ることが出来る唯一の条件は、その時の大祭司が死んだ場合でした。その場合だけ、逃れの町を出て、自分の町、自分の家に帰ることが出来ました。
このように、主は、イスラエルの12部族が、それぞれの相続地を得たのちに、イスラエルの民が忘れることなく「逃れの町」を定めるように命じられ、それを実行に移すまで、見守られました。この逃れの町は、やがて、来たるべき救い主イエス様の十字架による救いを予表するものでした。逃れの町に逃げ込んだ殺人者たちは、大祭司が死んだときに、解放されました。それは真の大祭司であるイエス様が、十字架の上で、私たちの身代わりに死なれた時、私たちも自由になることを予表するものでした。
しかし、町の中に入るには、門の前で、町の長老たちが良く聞こえることが出来るように、大きな声で、ハッキリと自分が犯した罪を告白することが必要でした。私たちも、罪の赦しを求めて主の前に罪を告白することが求められています。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙、第1、1章9節、10節)。
きょう、私たちの救い主、イエス様の御名をほめたたえます。私たちは罪びとでした。しかし、一方的な主イエス様の恵みにより、罪の赦しにあずかることが出来ました。まさに、神は愛です。♪ 恵みの光は、我が行き悩む 闇(やみ)路を照らせり、神は愛なり。浮雲おおえど、御顔の笑みは さやかに照りいず、神は愛なり。憂いの時にも 望みを与え、慰めたまえり、神は愛なり。ものみな移れど、恵みの光、永遠にぞ輝く、神は愛なり。我らも愛せん。愛なる神を!
清宣教師