さて、士師記の13章から、サムソンが登場しました。その中で、主は「不思議」という名前でご自分を紹介されました。主は私たち人間には不思議に見えることを行われます。神様の著しいみわざがあらわれるとき、そこには不思議なことが伴います。ですから、使徒の働き4章29節、30節で、使徒たちは次のように祈りました。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばして癒しを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」彼らがこう祈ると、「一同が聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」(32節後半)と記されています。私たちも、不思議というお名前をもつお方に、しるしと不思議を求めて祈りましょう。宣教の前進のためです。
さて、サムソンはナジル人として生れる前から聖別されました。そして、主の霊がサムソンの上に下りました。しかし、不思議なことに、サムソンの霊はきよめられず、サムソンはやりたい放題、したい放題のことをしました。力だけは、常人の数十倍、数百倍の力をもっていました。これは不思議なことです。15章でも、主の霊が激しくサムソンの上に下り、サムソンは思う存分、超人的な力を発揮してペリシテ人千人をロバのあごの骨で打ち殺したと記されています。新約聖書のマタイの福音書に、イエスの御名によって、預言し、悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行った人たちについて、イエス様は、「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイの福音書、7章22節、23節参照)と言われました。聖霊による力の賜物については、その人の品性を変えるものではないようです。器と中身については、力の賜物は中身(品性)は変えないようです。一方、聖霊による新生、御霊の満たしは、『愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制』など、その人の品性の中に豊かな実を結ぶ働きをします。私たちが聖霊の宮となるとき、私たちの品性が主と同じ姿に変えられていきます。これは「御霊なる主の働きによるのです」(コリント人への手紙、第2、3章18節参照)と記されています。
私たちが主に求める時、なにを求めるでしょうか? 外面的な力でしょうか。それとも内面的な変化でしょうか。第1に、私たち自身の中身を変える新生、聖霊の満たしを求めます。そして、次に、しるしとふしぎ、力を求めます。両方兼ね備えたいですね。
きょう、聖霊様が私を造り変えて下さいますように。主イエス様の燃えるような愛を日々、増し加えて下さい。
ところで、不思議といえば、雨上がりのあと、空に見られる虹も不思議ですね。1671年2月19日、アイザック・ニュートンは虹の形成についての論文を公表しました。彼は、雨粒を通してできる多彩の反射し屈折した光が空に作り出す美しい色彩の列を計算しました。虹は、創世記9章13節で、もはや水による世界規模の裁きはないという目に見える約束として記述されています。アイザック・ニュートンの科学的な説明は、神の配慮としての美しい虹の象徴を色あせる物にはしませんでした。むしろ、神の愛と英知をたたえるものとなりました。
清宣教師