17章6節には、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」と記されていました。そして、今日の19章では、冒頭、「イスラエルに王がなかった時代のこと」として、ひとつの事件を紹介しています。17章~18章では、神(創造主)を求めない自己中心的な人々がイスラエルに宗教的な混乱をもたらしたことが描かれていましたが、19章~21章では、イスラエルを治める王ががいない秩序のない社会、そこでの宗教的な混乱が社会のさまざまな分野での倫理的な混乱へと繋がっていったことを記しています。
さて、ひとりのレビ人が登場します。レビ人のそばめは、レビ人である夫を嫌い、実家に帰ってしまったのでした。そばめの父は、彼女を迎えに来た夫の都合を考えず、無理に長時間、家に留まるように勧めました。おそらく、彼女が実家に逃げ帰って来たからには、夫の虐待とか、なにか、理由があると考えたので、出来るだけ、帰りを引き延ばしたのではないかと想像されます。しかし、その結果、レビ人は遅く出発することになり、外泊することになりました。外国人の町を避けて同胞のギブアの町へ行きましたが、町の人は泊めてくれず、寄留者の老人だけが家に迎えてくれました。おそらく、この老人は、同郷のよしみで、宿を貸してくれたようです。しかし、そこに町のならず者たちが来て、男色を要求しました。そこで、身代わりに、そばめを提供しました。それで、そばめは一晩中、ならず者たちから暴行を受けました。翌朝、家の前に倒れているそばめを見出した夫は、そばめをロバに乗せて家に帰り、そばめの死体を12の部分に切り分けて、イスラエルの国中に送りました。そこで、イスラエルの各部族はミツパに集まりました(21章1節)。霊的な暗黒の社会において、これからどんな事件へと発展してしまうのでしょうか? 不気味な予感がする出来事です。創造主に背を向けて、自分中心の勝手な生き方(人間中心主義)を選択すると、倫理的にも、社会的にも混乱の渦の中に巻き込まれて収拾のつかない状況へと発展してしまうものです。ですから、ローマ人への手紙1章には、創造主を認めず、創造主に背を向けて生きる人たちの事が記されています。「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。・・・こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。・・・彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者・・・・情け知らずの者、慈愛のない者です。」(ローマ人への手紙、1章21節~31節)。
それらの霊的混乱から逃れるために、聖書は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル人への手紙、12章2節)と勧めています。また、イエス様も、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネの福音書、15章5節)と述べています。真のいのちであるイエス様から離れる時、人間は自分中心の世界観の中に生きることになり、めいめいが自分の判断で生きることになります。共通の土台のない社会は、混乱をもたらします。
きょう、私たちの日本の国のために、霊的混乱から創造主のもとへ立ち返るように祈りましょう。日本の国が、創造主を知り、創造主を礼拝する民に変えられますように、共に、お祈りしましょう。清宣教師