1節:ダン(イスラエルの北の果て)からベルシェバ(イスラエルの南の果て)まで、イスラエルの人たちがみな、出てきて、ミツパ(エルサレムから北へ7.5キロメートル)に集まりました。イスラエルの諸部族は、ベニヤミンの諸氏族のすべてに人をやって、ギブアにいるならず者たちを引き渡すように要求しました(12節、13節)。しかし、ベニヤミン族はこれを拒否、イスラエルの諸部族との全面戦争になりました。最初の2回は、イスラエルの敗北に終わりましたが、3回目は、イスラエルの圧倒的な勝利となり、ベニヤミンは完全に敗北しました。ベニヤミン領内の町々はすべて破壊され略奪されました。こうして、ベニヤミンの犯した罪は取り除かれました。それにしても、戦争が終わってみると、イスラエルも冷静に考える機会が与えられ、ベニヤミン族が絶滅するかも知れないという事態に気付いて、イスラエルは、後悔し始めるのです。そして、今度は一転して、ベニヤミン族を何とか再生させようと手段を講じるのです(21章)。
それにしても、主に背をむけて、自分勝手な判断を基準として生きる時に、人々は容易に、自己義認、プライド、感情の高揚などにより、行動してしまうものです。そして、サタンの策略に乗ってしまうものです。目先の事柄や、誰かの訴え(ここでは一人のレビ人の訴え、しかも、レビ人に有利な脚色を加えた訴え。あるいは、ベニヤミンの指導者の自己中心的な訴え)に耳を傾けやすいものです。日頃から、私たちは、私たちの判断の根底となるものに、耳を傾ける必要があります。聖書のみことばを土台として、聖霊の賜物である識別力の賜物をいただいて、何が真理であり、何が偽りであるかを見ぬくことが必要です。それにより、不必要な争いを避けることが出来ます。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5章9節)。私たちは、教会において、トラブルメーカーになるのか、ピースメーカーになるのか、それには、私たちの日頃の生き方が関わってきます。肉に蒔く生き方か、霊に蒔く生き方か、日ごろから正しい選択をすることを通して、私たちは、主の似姿に変えられていくように思います。神の子どもとは、主の似姿に変えられていく者たちです。
きょう、私たちが感情にまかせて行動することがないように、主よ、どうぞ、お守りください。あとになって、自分のしたことを後悔することがないように、落ち着いて、判断できますように、私たちをお守りください。私たちに悪をはかった人たちを赦すことができる、寛大さを与えて下さい。御霊に満ちた人として行動させてください。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇1節~3節)。
清宣教師