さて、士師記8章ですが、ギデオンは、エフライム人たちから激しく責められます。それは一方的な、自己中心的な非難でした。しかし、ギデオンは、神様の知恵によって柔らかに答えました。それで、一件落着でした。ギデオンは、ミデヤン人という外敵との闘いの中にあり、勝利を収めつつありましたが、その大事な時に、味方であるはずの人たちから一方的な攻撃を受けたことになります。サタンの戦略は、いつも、変わりません。外に向かって勝利を収めようとするとき、サタンは内にあるものを用いて、その勝利をストップさせようとします。それは、その人たちの中にある妬み、プライド、そのようなものを用います。私たちは、他の兄弟姉妹から誘われた時、その人の心のうちにある動機は何か、真実を見抜くことができないと、主の計画を阻害する側についてしまうことになります。エフライムは人の前で自分を義とするものでしたが、主の前では、その真実は見抜かれていたのです。
さて、ギデオンは、心をひとつにする300人の勇士たちと、ヨルダン川を渡りました。そして、最後まで、手をゆるめませんでした。途中、やはり、非協力的な人たちに出会いました。イスラエルの身内なのですが、傍観者です。彼らも、自分勝手な理屈を並べて、町中が結束して、ギデオンに敵対しました。スコテの町の人たち、ペヌエルの町の人たちです。彼らは、攻撃こそしてきませんでしたが、ギデオンが敵に勝利するために助力しませんでした。ギデオンは、自分のいのちをかけて立ち上がりましたが、実際には、味方の中にも単なる傍観者がいたのです。サタンは、とても大事な時に、神の陣営の中に、傍観者を造りだします。サタンは、中立ということばで、兄弟姉妹を騙します。サタンとの闘いでは、中立ということはないのです。
というわけで、主の使命に立つ人は、兄弟姉妹から自己中心的な非難を受けたり、傍観者としての非協力的な冷たい仕打ちを受けたからと言って、ひるんではならないということです。ギデオンは、それでも、主に従いました。。そして、ミデヤン人たちに対して、勝利を収めました。
ギデオンが勝利したことがわかると、イスラエルの人たちは、ギデオンを王にしようとしましたが、ギデオンは断りました。「主があなたがたを治められます」と言いました。しかし、そのあと、残念なことですが、ギデオンは、敵からの戦利品である金を用いて、エポデをつくります。大祭司が身に着けるものですが、これが、後に、偶像礼拝の対象となってしまいました(8章27節)。
主の恵みにより、40年の間は、イスラエルは穏やかでした。しかし、また、イスラエル人は主からその心が離れて行ったのです。「人は恩を忘れやすいが、あなたはそうであってはならない。あなたは例外になれ」と言った人がいます(「眠られぬ夜のために」の著者、ヒルティ)。まさに、イスラエルの人たちは、主から受けた恩を忘れました。それは、ギデオンから受けた恩も忘れることを意味していました。私たちも、イエス様の十字架の自己犠牲の恩を忘れやすいものです。恩をわすれると、善意に対して、真実を尽くさなくなります(35節参照)。35節で言われていることは、イエス様が私たちに尽くした善意のすべてにふさわしい真実を尽くすように語られていると思います。きょう、天国の一日を感謝します。
清宣教師