1節―10節:ハンナの祈りが記されています。非常に力強く、預言的な内容ですね。弱弱しく、泣き崩れていたハンナとは別人のようです。主への全幅の信頼へと心のモードがギアチェンジしていて、ほんとうに、凄いですね。祈りの中で、主のみわざを賛美し、ついには、将来を予見し、圧倒的な主の御支配を賛美しています。
11節―17節:さて、エルカナとハンナは、ひとり息子のサムエルを祭司エリに預けて、自分の家へ帰りました(11節)。一方、エリの息子たちは、よこしまで、横柄で、主への捧げ物を軽んじる者たちでした。そういう意味では、サムエルが育てられた環境は決して教育的に良い環境ではありませんでした。むしろ、反面教師的な環境の中で育てられています。
18節―21節:エルカナとハンナ夫妻は、祭司エリにより祝福されて、3人の息子と二人の娘を与えられました。そして、少年サムエルは、主のみもとで成長した、と記されています。26節では、「少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された」と記されています。イエス様の幼少期の描写によく似ています(ルカの福音書、2章52節)。ハンナの信仰の捧げ物であるサムエルは、主の御計画の中で、エリのよこしまな息子たちの影響から守られたことが見て取れます。
22節―26節:祭司エリは、息子たちの行為を戒めますが、彼らを悔い改めさせることはできませんでした。もはや、彼らに生きる余地はなくなりました。27節―36節:そこで、主は、エリのもとに、預言者を遣わしました。非常に厳しい預言でした。「わたしは、わたしを尊ぶものを尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(30節)。つまり、神をさげすむエリの家は退けられ、神のみこころを重んずる忠実な祭司が代わりに立てられることになるという預言です。神の人(預言者)が遣わされたのは、最後のチャンスでした。もし、ここで、祭司エリが、息子たちを処罰していれば、イスラエルの民への大きな災害を避けることが出来たと思われます。しかし、エリは、ここでも優柔不断でした。最後のチャンスを逃しました。
さて、まとめますと、一方は祭司の家族、他方は二人の妻が争う家族でした。しかし、二人の妻が争う家族の中で、不当に虐められていたハンナが、祈りに導かれました。そして、その祈りは、やがてイスラエルを救うサムエルを生みました。一方、祭司は息子たちの行状により心を痛めていましたが、本当の祈りには導かれなかったようです。心を痛める出来事に遭遇した時、主に祈ることが最良の解決策であることを学ぶことが出来ます。
なお、今から3年3か月前のちょうど、1日1章の聖書個所がサムエル記第1、2章の日でした。その日の朝、30年以上前の友人からメールを受け取りました。それは、30年前、私がフィリッピンの国際稲研究所にいたとき、知り合ったクリスチャンです。ある日曜日の朝、聖書を片手に自分の車で教会に出かけようとして、研究所の敷地を歩いていたら、その人が声をかけてきました。インドのマドラスクリスチャン大学の先生で、「教会の礼拝に出席したいので一緒に連れて行ってくれ」ということでした。その後親しくなり、一緒に研究所の中で、伝道集会のような集まりを企画して、実行したことを覚えています。その人が、私が日本に帰国する前、私にカードをくれました。そこに聖書のことばが記されていました。それは、「Those who honor me I will honor.」という言葉でした。 今日の聖書の個所、「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」(サムエル記第1、2章30節)のことばでした。主は必要な時にクリスチャンとの出会い、また、みことばとの出会いを与えてくださいます。主を賛美します!清宣教師