いよいよ、サムエル記第1も、最後の章を迎えました。同時に、サウル王の最期を迎えました。
サウルの王への召しに始まり、サウルの不従順の積み重ねにより、サウロは最後は自決という道を選びました。途中、何度も、悔い改めのチャンスはあったのですが、頑なに自分の道を進んでしまい、主の祝福を逃してしまいました。最後は、3人の息子の戦士の報を聞き、ギルボア山で自決しました。ペリシテ人がやってきて、サウルの死体を持ち帰り、ベテ・シャンの城壁にさらしものにしました。それを聞いたヤベシュ・ギルアデの人たちの中で、勇士たちがみな、奮い立ちました。その理由は、サムエル記第1、11章の記事をご覧くださると分ります。勇士たちはみな、夜通し歩いてサウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り外し、ヤベシュに運び、そこで焼いて、骨を葬り、7日間の断食をして、サウルと息子たちの死を悲しみました。ヤベシュ・ギルアデの人たちは、サウルに助けられたことを決して忘れることなく、自分たちのなすべきことをしたのです。サウルの悲劇的な最期でしたが、なにか、ここにも、主の恵みがあることを感じます。
明日は、サムエル記第2、1章に入ります。ダビデのもとにサウル王の死の知らせが届きます。そして、ダビデはサウルのため、ヨナタンのため、その死を悼んで哀歌を作りました。
ところで、話は飛びますが、「麒麟が来る」の大河ドラマは終了しましたが、明智光秀の娘の細川ガラシャ婦人は、日本よりもヨーロッパで古くから知られておりました。それは、1698年、ウィーンにあるイエズス会の施設でバロックオペラ「気丈な貴婦人グラティア(細川ガラシャ)が上演され、ヨーロッパで大きな話題となったからです。その正式の題名は、「丹後国王の妃であった気丈な貴婦人グラティア、キリストのために苦しみによってその名を高めた」でした。今から320年以上前のことでした。日本ではキリシタン禁教令が敷かれた80年後のことでした。将軍・徳川綱吉が支配する江戸時代の元禄11年にあたります。1793年のフランス革命で。断頭台の露と消えたあの王妃、マリー・アントワネットも、子供時代に観たこのオペラの感想を「ガラシャの凛とした生き様に大変感動した」といった内容のことを手紙に記したそうです。この記事は、守部喜雅氏の「明智光秀と細川ガラシャ」に記されています。初代のイスラエルのサウロ王は自決しましたが、丹後の国王の妃であった細川ガラシャ婦人も、38歳で、夫の細川忠興が不在の折、石田三成が遣わした家来たちに屋敷を取り囲まれ、祈りを捧げつつ、その生涯を閉じました。辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」でした。創造主への信頼を表明しつつ、自分の使命が終わったことを悟り、その生涯を終えたのでした。「天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」(伝道者の書3章1節、2節)。細川ガラシャ婦人は、明智光秀の娘として生まれたこと、細川忠興の妻となったことなどで、とても大きな運命の中に投げ込まれましたが、それゆえに、天地万物を創造された真の神に対する激しい餓え渇きがあり、文字通り、信仰に生きた女性でした。
私たちの人生も最期を迎える時がきます。一生を振り返ってみる時、主に受け入れられる人生でありたいです。清宣教師