この辺まで、サムエル記を読んでいると、ダビデ王とサウル王に対する神様の取り扱いに違いがあるのではないか、という思いも出てきます。神様はサウル王には厳しく、ダビデ王には優しく対応しているように感じられるのです。ダビデ王のことは、失敗しても、悔い改めるとすぐに赦しているのです。どうしてなのか、という疑問も出てきます。それについて、昨日紹介しました後藤正嗣牧師が、この疑問を解くようなことを記していますので、ご紹介します。後藤先生は、親と子の間のキャッチボールの大切さに加えて、次のように記しています。「もうひとつの大切なキャッチボールがある。それは、神とのキャッチボールである。大抵のクリスチャンは、朝に神に祈る時間をもつ。祈りの最も大切な要素は『神との交わり』であろう。いつも、要求だけを祈る人、形式的祈りで終わってしまう人、同じ言葉を呪文のように繰り返す人、そのような祈りは、神との交わりとは言えない。・・・(中略)・・・・聖書を見ると、神はサウル王の祈りには沈黙されたが、ダビデ王の祈りにはよく応えておられた。なぜか? ダビデの祈りには神との深い交わりがあった。詩篇を読むとそれがよくわかる。サウルの祈りは要求型であり、交わり型ではなかったように感じるのである。『キャッチボールは相手の胸をめがけて』これは自己中心的ではできない。相手を思いやる愛こそ、一番いい形でラリーの応酬を続かせるカギではないだろうか。きょうも、声を掛けられたら、相手の胸をめがけて、ことばのボールを返しましょう」。
きょうの20章の個所は、イスラエルの10部族の人たちが回り道をする記事です。プライドのゆえに、シェバという、よこしまな男のことばに惑わされてしまいました。そして、無用な争いが生じました(1節~15節)。しかし、ひとりの女性、ただ「知恵のある女」と記されているひとりの無名の女性によって問題が解決されました(16節―22節)。
さて。この20章では、勇敢な将軍ではなく、有名な首長でもなく、おそらく、普段は目立たない、たった一人の家庭の主婦によって、町全体が滅びる瀬戸際で問題が解決したことです。地位も、名声もなくても、知恵があるときに、町全体の問題をも解決してしまうことです。クリスチャンは、地の塩、世の光として、存在しています。神様からの知恵をいただくなら、社会の大問題も解決するという可能性が示されています。原発の問題、失業の問題、格差の問題、青少年の教育の問題、などなど。主からの知恵をいただき、いま置かれている場所で、まわりのひとたちに仕えるチャンスを生かしましょう。主のみ心は、あなたを通して、あなたの置かれたところに御国があらわれることです。主はあなたと共におられます!
主よ。御国が来ますように。みこころが天でなるとおり、この地で成就しますように。この小さな器を用いてください。♪雨を降り注ぎ、ひとりびとりに、奇しき汝がわざを見させ給えや。夕立のごと、天つ恵みを、イエスよ、今ここに注ぎたまえや!♪
清宣教師