ダビデはバテシバを妻として迎え入れましたが、前章の最後にしるされていたように、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなうものでした。主の前に隠すことができる罪は存在しません。主は、ご自分のしもべである、預言者ナタンをダビデのもとに遣わしました。ナタンは自分の役割を良く知っており、ダビデの罪を指摘するならば、バテシバの夫ウリヤのように、ダビデによって抹殺される恐れがあることを十分、承知していました。預言者の職務は、あるときは、とても危険な、いのちがけの仕事となるのです。ナタンは、ダビデのもとに来て、ダビデに訴訟の判決を依頼するような形で、ひとつの事件を告げました。それはある金持ちが、自分のところに旅人が来たときに、自分の羊の群れから旅人への調理用の羊をとることを惜しんで、隣の貧しい者が飼っていた、ただ一頭の羊を取り上げて、旅人のために調理したという訴えでした。しかも、そのたった一頭の羊は、貧しい者が、まるで彼の娘であるかのように可愛がっていた羊でした。ナタンがこの辺まで話をすると、ダビデの正義感が燃え上がり、激しい怒りがこみあげてきて、ナタンに言いました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」。そして、その判決理由を述べました。「その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を4倍にして償わなければならない」。ダビデはまさか、自分のことを言っているとは知らないので、正しい判決とその理由をのべたのです。しかし、次の瞬間、ダビデにとって、驚きの宣告がなされました。ナタンは、「あなたがその男です。」と宣言したのです。そして、判決を言い渡しました。それに対して、ダビデは即座に悔い改めました。「私は主に対して罪を犯しました」。それに対して、ナタンは、主のことばを伝えました。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」。ただし、罪の償いは、きっちり、支払わなければなりません。ひとつは、ダビデのまわりで争いが絶えないということ、ふたつめは、白昼公然と、あなたの友が、あなたの妻たちと寝るようになる、ということ。そして、みっつめは、バテシバとの間に生まれる子は必ず死ぬ、という判決でした。ところで、ダビデの悔い改めと、主からの宣告が、あまりにも、短時間で、淡々と記されているので、戸惑う読者もいると思います。しかし、実際には、ダビデは、バテシバとの不倫、バテシバの夫の暗殺のあと、心の中では深い葛藤があったのでした。そのことが、詩篇51篇に記されています。この機会に、詩篇51篇を表題から最後まで読むことをお勧めします。いつも、ダビデの目の前から、その罪は消え去ることがなかったのです(51篇3節)。このようなダビデの葛藤の生活があり、その結果、ナタンの告発に対する即座の悔い改めとして表れたと考えられます。主の前に、ダビデの悔い改めが、その場しのぎのものではなく、心底からの真の悔い改めであることを主がご覧になったので、即座に赦されたのです。しかし、罪の代償としての結果はとても大きなものでした。前にのべたみっつのことだけでなく、ダビデの家族の中に大きな禍根を残すことになり、こどもたちの不品行、ひいては兄弟同士の殺戮、謀反などを引き起こすことになります。しかし、一方では、ダビデは、アモン人の町の王の冠をぶんどり、アモン人に対してのそしりを返しました。それにしても、これからのダビデの生涯をみるときに、どうしても、このバテシバ事件さえなければ良かったのに、という思いが残ります。
今日の聖書の個所は、私たちへの大きな教訓と警告を含んでいます。ダビデのような信仰者でも罪をおかすこと、たとい悔い改めて、主の恵みと憐みにより罪を赦されたとしても、家族やまわりの人たちを不幸に陥れ、多大な犠牲を強いる結果となります。日々、教会の中に不幸な出来事が起こらないように祈りましょう。牧師、執事、兄弟姉妹の事を覚えて、人間の欲望、サタンの罠からお救い下さい、と祈りましょう。それこそ、キリストの体の一員としての責任、霊的な戦いです。清宣教師