さて、ネバテの子ヤロブアム王の治世の第18年に、アビヤムが南ユダ王国の王となり、エルサレムで3年間、治めました。きょうの表現のように、列王記の記述は、北イスラエル王国の出来事と南ユダ王国の出来事を、二本の糸を綴り合せるかのように、記しています。もともと、ひとつの民でした。ひとつの王国でした。ふたつの王国はお互いに反発しながらも、悪の道においては共に歩むような不思議な関係でした。それでも、南ユダ王国の方では、たまに、15章に登場するアサ王のように、主の憐みにより、信仰復興の運動が起こされました。一方、北イスラエル王国では、主に立ち返ることはしませんでした。
さて、ユダの王はアビヤムとなりましたが、父レハブアムと同じように、偶像礼拝の罪を犯しました。しかし、ダビデ王家の王位を継承する者として、主への礼拝を捨てることはしませんでした。それが、「ダビデの心のように主とまったく一つにはなっていなかった」(3節)という表現の意味であると思われます。しかし、主は憐みをもって、彼の跡を継ぐ者の中に、ひとつの希望の灯火を用意して下さいました。その預言の通りに、アビヤムが死ぬと、彼の子アサが王となりました。それは、北イスラエル王国のヤロブアム王の治世の20年目のことでした。アサ王は、エルサレムで41年間、治めました。アサ王の母の名はマアカといいました。どうやら、前の王の時代から「王母」としての位を維持していたようです。アサは、信仰復興のリーダーとなり、神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除きました。また、王母であるマアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を王母の位から退けました。アサは、この偶像を憎むべき像として切り倒し、これをキデロン川で焼きました。つまり、形式的な信仰復興ではなく、主のみこころを自分の心とする改革でした。16節以降、北イスラエルの王バシャが南ユダ王国を攻めてきたときに、アサ王は、北イスラエル王国の北隣にあるアラムの王に貢物をおくり、助けを求めました。そして、アサ王の晩年、「足の病気にかかった」(23節)と記されています。この列王記では、「アサの心は一生涯、主と全く一つになっていた」(14節)と記されております。ところが、歴代誌第2、16章1節~13節を見ると、別の視点からの記録が残っています。実は、アサ王は、アラムの王と同盟を結んだことを主から咎められました。ところが、アサ王は、主のことばに反発して主の予見者ハナニに足かせをかけました。そして、アサは両足の重い病気にかかりました。歴代誌第2、16章12節~13節では、「それから、アサはその治世の第39年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第41年に死んだ。」と記されています。さて、アサ王に代わって、彼の子ヨシャパテが王になりました。一方、南ユダ王国のアサ王の治世の2年目に、北イスラエル王国のヤロブアムの子ナダブがイスラエルの王となり、二年間、イスラエルの王でした。ナダブもまた、偶像礼拝の罪を犯し続けました。それで、アヒヤの子バシャが、ナダブに対して謀反を企てました。そして、バシャはユダの王アサの治世の3年目に、ナダブを殺し、彼に代わって王となりました。バシャは、北イスラエル王国の王となったとき、ヤロブアムの全家を打ち、ヤロブアムに属する者を根絶やしにしました。主がそのしもべ、シロ人アヒヤを通して言われた預言のことばのとおりでした。バシャ王の治世は24年でした。しかし、バシャもまた、ヤロブアムが犯した罪の道をやめることをせずに、同じ道に歩みました。つまり、北イスラエル王国は、偶像礼拝の罪を犯し続けることになるのです。
今日の個所から教えられることは、アサ王のような信仰復興のリーダーでも、最後の最後まで、主のみこころに従うことはとても難しいということです。ですから、黙示録では、死に至るまで忠実でありなさい、と励ましています。お互いに、励まし合って、最後の最後まで、信仰の道を貫き通しましょう。
清宣教師