ソロモンの父、ダビデは生前、ツロの王であるヒラムと親交をもっていました。『ヒラムはダビデといつも友情を保っていた』(1節)と記されています。そこで、ソロモンは王に即位して後、ツロの王に手紙を出しました。主の宮を建てるための木材の供給を依頼するものでした。ヒラムは快諾しました(2節―11節)。こうして、ソロモンとヒラムの間で契約が結ばれ、二人の間に平和が保たれました(12節)。ただし、その平和契約の背後には異教の神々との契約という妥協的内容が含まれていたかも知れません。エジプトの王パロと縁を結んだこと(3章1節)も、ツロの王ヒラムとの契約も平和をもたらす手段として有効ではありましたが、のちのち、イスラエルの国の中に異教の偶像や慣習が持ち込まれる戸口を開いてしまったという側面が否定できません。
ソロモン王は、イスラエルの民の中から3万人の役務者を徴用しました。それを3班に分けて、1カ月に1万人をレバノンに送り、各自が1か月レバノンで働き、2か月は自宅にいるように手配しました。そのほかに、荷役人夫が7万人、石を切り出す者が8万人、合計15万人ですが、この中には奴隷も含まれていたと考えられます(9章20節、21節参照)。そのほか、工事の監督をする者が3千3百人いました。この壮大な計画は、偉大な主にふさわしい神殿の建設計画でしたが、神殿建設に7年間(6章38節)、そして、ソロモンの宮殿の建設に13年間(7章1節)の長期にわたる建設は、イスラエルの民に重い負担としてのしかかることになって行きます。
旧約聖書の士師記、サムエル記、列王記などの特徴は、直接的に、読者に事の良し悪しを伝えることなく、歴史を伝えることにより、読者に判断させるスタイルをとっているように思います。きょうの5章でも、良し悪しは記されていません。聖書に記されているから、主が承認されているとは即断できません。私たちは、ソロモン王の末期、そして、その子のレハブアム王の時代に、ソロモン王の蒔いた種が刈り取られるのを見ます。そこに主のみこころが表れているように思います。
主からの知恵をふさわしく用いることは、なんと、難しいことでしょう。ただ、イエス様のように、父なる神様の栄光を表すことが唯一の目的である場合に限り、その知恵がふさわしく用いられるように思います。私たちも知恵や賜物を求めますが、イエス様の模範にならって父なる神様の栄光を表すことを唯一の目的としているでしょうか。そうでないなら、知恵や賜物を用いて成功したとしても、それは一時的なものであり、のちのちに重い負担を残すことになる恐れもあるのです。
まさに原発などは、悪い例のひとつであると思います。子々孫々に放射性廃棄物という人類の手におえないものを残してしまうのです。太陽光、地熱、風力など、天然エネルギーの利用こそ、持続可能な生活の基盤となるものと思われます。創造主が下さる恵みの中に解決を求めることこそ、クリスチャンの生き方にふさわしいものと思われます。
種類を超えた遺伝子組み換えも、創造の秩序に反するものです。むしろ、創造主は、人類の食料として準備された食用作物に対して、多様性を与えて、さまざまのニーズに応える作物を備えてくださいました。これも、創造主が下さる恵みの中に解決を求めることであり、クリスチャンの生き方にふさわしいものと思われます。
清宣教師