きょうの列王記21章について、ある注解者は、「妻に支配される男の責任―アハブの悲劇」というタイトルをつけています。妻に支配される男ということですが、普通は、このような場合、夫婦円満のカップルが多いように感じております。アハブとイゼベルの間も、世間的には仲の良いカップルだったようです。しかし、この章では、そのことが大きな悲劇をもたらすことになります。アハブは、背信の王でしたが、ある意味、悪に徹することができない側面をもっていました。ところが、妻のイゼベルの誘導でとんでもない大罪を犯してしまうのです。
さて、きっかけは、アハブの宮殿のそばにあったぶどう畑でした。アハブ王はその畑を譲り受けて自分の野菜畑にしたいと思いました。そこで、礼を尽くして取引しようとしたのです。ところが、ブドウ畑の所有者であったナボテは、「主によって、私にはありえないことです」と言ってきっぱりと断りました。それは、民数記36章7節に記されているように、「イスラエル人は、おのおの父祖の部族の相続地を堅く守らなければならない。」という神の戒めがあったからです。イスラエルの王としては、主の律法をもとに断られたので、尊重せざるを得ません。しかし、アハブ王の感情はおさまりません。まるで、こどもように、あの畑が欲しい、と駄々をこねて食事もしないで寝込んでしまいました。その様子に、妻のイゼベルは心配して、不機嫌の原因を聞きだしました。すると、ナボテの畑が欲しいけれども手に入らないことが原因である事が分りました。イゼベルは、私が代わりにナボテの畑を手に入れて上げますから、さあ、元気を出して食事をしてください、と夫のアハブを励ましました。これが罪を犯すことでなかったら、ほほえましい夫婦の会話になるのですが、残念ですが、夫の欲望を満たすために、イゼベルは手段を選ばず、ならず者たちに、偽証させて、ナボテを訴えて、石打ちで殺すように、ナボテの町の指導者や長老たちに命じたのです。イゼベルの価値観は、王とは、権力者であり、何をすることも許されるべきである、というものだったようです。一方、アハズは、中途半端ですが、偶像礼拝をしながらも、イスラエルの王として、イスラエルの伝統に従い、主に従わなければならない、という意識もあったようです。イゼベルによれば、王たる者が民の言い分を聞く必要はない、民こそ、王の言い分を聞くべきであるという倫理観をもっていたようです。本来、イスラエルの王は、神のみこころに従い、民たちの権利を守り、養う者として、主によって立てられたのです。その点で、異邦の王とは異なるものでした。だから、繰り返し、王たるものは、申命記の律法の書を良く読み、それに従うべきことが強調されてきたのです。しかし、ユダの王であれ、イスラエルの王であれ、権力を持つようになると、自分の思いのままにふるまい、主の教えから離れて行くのが常でした。さて、ナボテは、イゼベルの謀略により、処刑されてしまいました。妻からナボテの死を告げられたアハブは、さっそく、ナボテのブドウ畑を取り上げようとして現地に向かいました。そのとき、主はエリヤに現われて、アハブの罪を糾弾するように命じられました。エリヤがアハブに会い、その罪を厳しく糾弾すると、アハブは急に、外套を裂き、荒布をまとい、断食をして、悔い改めました。その様子をみた主は、アハブの悔い改めを受け入れて、アハブの世代ではなく、次の世代に裁きを行うことを明らかにしました。しかし、この悔い改めが、アハブの後半の人生を変えたかというとそうではありませんでした。ただ、神の裁きの時が、神の憐みにより延期されたということでした。ここでも、アハブの不徹底さが印象に残ります。
今日の個所から教えられることは、人はなんらかの権限や権力を与えられると、それを自分の欲望や利益のために、用いようとする誘惑が来ます。しかし、クリスチャンの場合は、そうならないように、それを注意してくれる伴侶者や信仰の友達が備えられています。また、そうならないように、「主は、わたしはあなたと共にいる」と約束して下さっています。つねに、私たちは主によって生かされていることに意識を向けましょう。主は、今日も、あなたと共におられます。
清宣教師