アハブの子、ヨラムが北イスラエルの王となりました。アハブほどの悪王ではなかったようです。アハブの時には貢物を納めていたモアブの王が北イスラエルの王に背きました。そこで、北イスラエルの王ヨラムは、南ユダの王ヨシャパテ、さらに、エドムの王と一緒にモアブを打つために出陣しました。そのときに選んだ作戦は、エドムの荒野の道を経由してモアブを攻撃する方法でした。ところが、7日間の回り道であったので、備えの水がなくなり、窮地に立つことになりました。そこで、イスラエルの王は、主が3人の王を敵の手に渡すために、この作戦をとるように導いたのだと断定しました。そのとき、南ユダの王ヨシャパテの「主のみこころを求めることのできる主の預言者はいないのですか」という発言をきっかけに、3人の王は、主の預言者エリシャのもとへ行くことになりました。エリシャは、南ユダの王ヨシャパテのために、主のことばを伝えました。それは「この谷にみぞを掘れ。」という不思議なことばでした。雨も降らないのに、なぜ必要なのでしょうか。その理由は翌朝になって分りました。エドムの方から水が流れてきて地を満たしました。モアブの軍勢が、イスラエルの王たちの連合軍に対して対陣したとき、みぞの水が太陽の光に照らされて血のように見えたのです。それで、モアブの軍勢は、イスラエルとユダとエドムの間で同士討ちを始めたのだと早合点して、イスラエルの陣営に攻め込んできました。それに対して、イスラエルとユダとエドムの連合軍は十分に体制を整えていたので、モアブの軍勢を打ち負かし、さらに、モアブの町々を破壊し、大勝利を収めました。一方、モアブの王は追い詰められて八方破れの行動で、自分の後継の王となるべき長男を、全焼のいけにえとして捧げました。絶対にあってはならないことです。あまりにも非道な残虐な、そして悲惨な光景を見たためか、イスラエルの連合軍の兵士たちは、それぞれ自分の国へ引き返していきました。
今日の個所は、状況証拠だけで判断したイスラエルのヨラム王の態度に対して、あくまでも主の預言者に聞こうとするユダのヨシャパテ王の態度が対象的です。私たちも、状況で判断するのではなく、主のみことばにより判断することが必要です。モアブの王の大失敗も、目で見た状況の判断の誤りから来たものです。目で見た状況を、一歩退いて、主に祈りつつ、冷静に正確に判断することが必要です。「みぞを掘れ。みぞを掘れ。」というみことばは、私たちに対しても何かを教えているように思います。
例えば、現在の日本のキリスト教の中では、リバイバルの兆しを見ることができません。しかし、主は「みぞを掘れ。みぞを掘れ。」と言われているのかも知れません。人間の五感ではそのしるしを見ることができなくても、
主ご自身は昨日も今日もとこしえまで変わることのないお方です。今日、何も起こっていないように見えます。むしろ、新型コロナの影響で暗闇に覆われているようにも見えます。しかし、私たちの主は6日間でこの世界を創造されたお方です。また、十字架の上で全人類の罪の贖いを成し遂げられたお方です。そして、再臨の日には、私たち人類だけでなく、すべての被造物を回復してくださるお方です。主が立ち上がるなら、聖霊の大雨といのちの泉が湧き上り、多くの人たちが教会に寄せてくることが現実のものとなります。
イエス様は、カナの婚礼の席で、お客さんたちをもてなすブドウ酒が無くなった時、その婚礼の祝宴が台無しにならないように、お手伝いさんたちに6つのかめに水を満たさせました。そして、イエス様は、それを最良のブドウ酒へと変えられたのです。この時、水がブドウ酒に変えられた奇蹟を目の前で見たのは、水を汲んだお手伝いさんたちでした(ヨハネの福音書2章9節)。私たちも、主の約束のおことばを信じて「みぞを掘りましょう」。しもべたちこそ、イエス様のみわざを見る特権にあずかるのです。
清宣教師