エリシャは預言者学校の霊的な指導者としての役割を果たしていたようです。預言者の仲間たちの数が増えてきて、住む所が手狭になったので、預言者の仲間たちで、ヨルダン川の川岸に行って、材木を切りだして、新しく住む所をつくることになりました。そこで、エリシャもついていくことになりました。ところが、木を伐り出している時に、仲間のひとりが材木を切り倒している時、斧の頭の部分がすっぽ抜けたのでしょう、川の中に落としてしまいました。それで、「ああ、わが主。あれは借り物です」と思わず大きな声で叫びました。そこで、エリシャは、「どこに落としたのか」と彼に尋ねました。そして、彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせました。ある意味、この預言者の集団は裕福ではなかったようです。斧も借り物だったことから推測されます。人から借りた大切なものです。それを紛失してしまったのです。主のみこころにかなった働きでも、すべてが順調にいくのではなく、借りた斧を紛失するということも起こります。しかし、それで終わりではなく、それが新しい神の御業(奇蹟)を見ることに繋がったのです。すべての問題は祝福の門口です。予期せぬ悪い事態が起こっても、主に信頼しましょう。主の奇蹟のみわざに期待しましょう。
さて、8節~23節は、イスラエルとアラムの間の紛争が記されています。アラムの王がイスラエルを攻撃するための作戦会議を開きましたが、その内容は、神の人エリシャには筒抜けでした。主がその内容をエリシャに教えて下さったからです。エリシャはその内容をイスラエルの王に伝えました。それは1度や2度ではありませんでした。そこで、アラムの王は、怒りに燃え、家来たちの中にイスラエルに内通している者がいるのではないかと問いただしました。それに対して、家来のひとりが「イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」と答えました。それで、アラムの王は、大軍を引き連れてエリシャを捕まえようとしました。しかし、主がエリシャの願いに答えて、アラムの軍勢の目をくらませて、見えないようにしたので、エリシャはアラムの軍勢をサマリヤの町へ連れて行きました。アラムの軍勢の目が再び開かれると、サマリヤの町の真ん中に来ていました。イスラエルの王は、彼らを打ち取ることをせずに彼らに飲み食いさせて返しました。アラムの軍勢は、圧倒的な神のみわざを体験したので、もう2度と、イスラエルの地に略奪のために入ってくることはありませんでした。これには、エピソードが記されています。エリシャのしもべが、アラムの大群を見て恐れましたが、エリシャが祈り、彼の目を開くと、彼の目にはアラムの軍勢にまさる天使たちの火の馬と戦車とが山に満ちているのが見えました。ですから、エリシャがアラムの大群を目の前にしても、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)だった理由がわかりますね。私たちの目はどうでしょうか?天の軍勢が見えるなら、天使たちの守りが見えるなら、大きな変化が起こると思います。「わたしはあなたと共にいる」という主の約束は真実ですから、私たちの霊の目が開かれるなら、守護天使たちが私たちを守っている姿をみることができます。24節~33節は、もうひとつの記事が記されています。アラムの王のベン・ハダデが全軍を召集して、サマリヤを包囲しました。一方、サマリヤには、その頃、ひどいききんがありました。それで、サマリヤの町は、著しい食料不足になりました。それは想像を絶する飢餓状態をもたらしました。母親たちが食べる物がなく、自分たちの幼児を煮て食べるほどの悲惨な状態に陥りました。イスラエルの王は、自分の思い通りにならない、自分の無力さを見せつけられて、それをエリシャのせいにして、エリシャを処刑しようとしました。イスラエルの王は、不信仰者の典型のようです。不信仰者は、悪いことが起こるとそれを神のせいにして、神を非難します。
ところで、イエス様は、どのようなお方でしょうか。イエス様は不当な仕打ちを受けても、人々を呪うようなことはしないで、むしろ、そのような人々のために執り成しの祈りを捧げました。主を愛する者のためには、主は全てのことを働かせて益としてくださるのですから、私たちも主の模範にならいましょう。清宣教師