1節―6節:ついに北イスラエル王国は崩壊しました。アッシリヤのサルゴン2世によりサマリヤは陥落し(紀元前722年)、北イスラエルの人々はアッシリア帝国の諸地方に移住させられました。ゴザンはカランの東80kmの地域と考えられ、アブラハムの故郷に近い場所のようです。
7節―23節:北イスラエルは、主の預言者によって、繰り返し、繰り返し、異邦の民にならって偽りの神々に仕えることがないように警告を受けてきました。なぜなら、イスラエルの民が約束の地、カナンを相続したのは、その地の民が偽りの神々に仕えていたからであり、決してイスラエルの民が優秀な民であったからではなかったからです。主によって退けられた異邦の神々を受け入れ、異邦の民の悪しき風習にならうなら、イスラエルの民もまた、主によって退けられるからです。ところが、北イスラエルの民は、ヤロブアムの罪をやめることなく、かえって、アシェラの偶像、星々、バアルの偶像を礼拝することを取り入れて、異邦の民よりも、頑なな民となってしまったので、アッシリヤによって滅ぼされるという結果を招いたのです。
24節―41節:アッシリヤの王は、サマリヤを二度と反抗できないようにするために、バビロンの近くの占領地域(バビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムなど)から人々を連れてきて混血の民としました。さらに、アッシリヤの王は、サマリヤから捕えてきた、ひとりの祭司をサマリヤに遣わし、主を礼拝する習わしを教えさせましたが、それは、それぞれ、自分たちの神々に、もうひとつ神を加えるというものでした。33節で、「彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた」と描写されています。真のリバイバルではなく、もろもろの神々に、ひとつの神を加えるという多神教の宗教でした。35節から39節において、主のことばが語られますが、それは完全に無視されます。そして、これらの民は、主を恐れ、同時に、彼らの刻んだ像に仕えたのでした(41節)。「主を恐れる」という表現は、本来の意味とは異なり、迷信的な恐れであったようです。
今日の個所は、日本人の神観に似ていると思いました。八百万の神々に、主という新しい神を加えるなら、何の抵抗もなく受け入れられるのですが、唯一の神である主ということには、どこまでも抵抗を示します。クリスマスなど、八百万の神々の祭に、ひとつの新しいお祭りが加わる事には抵抗がなく、むしろ、歓迎されます。
しかし、本当のリバイバルというのは、このような形で、日本の人々に認知されることではなく、西多賀教会の主日礼拝で唱和されるビジョンの通り、日本の民が創造主を礼拝する民に変えられることであると確信します。黙示録14章に、終末に宣べ伝えられべき永遠の福音が記されています。「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。『神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め』」。これこそ、この終末の時代に、主から私たちに委ねられた使命です。この使命を覚える時、日々、真剣に、祈り、力を尽くして求める以外にありません。こうすることによって、私たちの次の世代の子どもたちや孫たちが、幸せに暮らすことができる基盤を築くことが出来るのです。主からの祝福こそ、何もまさる安全で確かな未来を築くのです!
清宣教師