今日は23章です。ヨシア王は、主の預言者フルダの励ましもあり、律法の書を長老や祭司や預言者、そして民たちの前で朗読し、主の前に、契約を結びました。そして、ソロモン王以来のすべての異教の偶像と偶像に仕える祭司たちを除きました(4節―14節)。そして、ヨシア王の宗教改革は北王国のサマリヤまでも及びました(15節―20節)。この15節~20節の出来事は、すでに、約300年前に預言されていたことの成就でした。その預言は列王記第1、13章に記されています。ダビデ王朝の「ヨシア」と名指しで預言されていました。ヨシア王の宗教改革のクライマックスは、過ぎ越しの祭の復活です(21節―23節)。ヨシア王の宗教改革は、みせかけではなく、自己満足でもなく、律法の書に記されていることを忠実に実行するという徹底したものでした。私たちの模範です(25節)。しかし、南ユダに対する主の裁きを回避することは出来ませんでした(26節、27節)。そのあと、とても残念がことが起こりました。エジプトの王パロ・ネコが北上してきました。それはアッシリアに対して対抗するためでした。パロ・ネコの北上に対して、南ユダのヨシア王は、それを阻止するためにパロ・ネコを迎えうちに行きましたが、逆に、殺されてしまいました。パロ・ネコを阻止することは、主のご計画の中にはなかったようです。ヨシア王の勇み足というか、ここで、命を落としてしまったのです(28節~30節)。信仰の熱心が、ときに、狂信とか、妄想に囚われてします恐れがあることを示しています。ここで、思い出すのは、韓国の熱心なクリスチャンが、イエス様がペテロに命じて水の上を歩くことを実現されたので、自分たちも、氾濫する川の上を歩こうとして、濁流に呑まれて死んでしまった事件です。熱心な信仰だけでは過ってしまう恐れがあります。冷静に主のみこころを求める必要があります。そうでないと、せっかくのヨシア王の宗教改革のように良い働きが中途で挫折してしまうことになるからです。そういう意味では、サタンが、信仰の熱心さに目をつけて、背中を押して、勇み足という致命的な打撃を与えたようです。私たちも、良い働きであればあるほど、熱心さとともに、冷静さをもつことが勧められています。そして、ヨシヤ王の後継者、エホアハズは3か月、そのあとのエホヤキム(エルヤキム)は11年間、エルサレムで王でした。しかし、彼らは、主の前に、再び、偶像礼拝の道を選び、バビロン捕囚へと破滅の道を転がり落ちていくのでした(31節~37節)。
さて、これまでの流れをみると、線香花火を想いだします。線香花火は最後に地面に落ちる前に、ひときわ明るく輝きます。そして、その火の玉は地面に落ちて散ってしまい、暗闇が覆います。ヨシア王の出現は、南ユダ王国の歴史において滅亡の前の最後の輝きのような個所です。私たちが生きている終末の時代にも、最後の輝きとして大リバイバルが起こり、そのあと、反キリストの出現により、最終的に艱難時代へと突入していくと推測されます。今日も、全世界のクリスチャンと心をひとつにして、祈りましょう。主のみこころが天においてなるように、この地(地球)において成りますように。絶えず、祈りましょう。
清宣教師