さて、ダビデ王は、一度は失敗した国家的な事業計画に再び、取り組みました。ダビデは、部下に、前回の失敗の原因調査を命じたようです。そして、前回の失敗の原因は、主のことばの命じたとおりに行わなかったことであると判明したようです。それで、今回は、レビ人や祭司を集めて、新たに取り組みました。そして2節と15節に記されているように、レビ族の者が、契約の神の箱をにない棒で肩にかついで運ぶようにしました。そして、無事、ダビデのビジョンは実現しました。主の契約の箱はダビデの町に入りました(29節)。
今日の個所からは、やはり、主からのビジョンであれば、たとえ失敗しても、その原因を探り再度、挑戦することが必要であることを教えられます。そのとき、すべてのことが働いて益となるというみことばが成就します。ダビデは、前回の失敗を通して、人間的な方法としては最善であっても、主の計画に沿った方法でなければダメだということを学びました。さらに、祭司やレビ人たちの任務を再確認して、組織を立て直しました。こうして、改めて、もう一度、主への礼拝の方法について学ぶ機会が与えられました。それが、これからのダビデの幕屋と礼拝の基礎となったのでした。
最後に、サウルの娘ミカルのことが記されていますが(29節)、主を礼拝する者をさげすむ者は、主をさげすむ者です。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(サムエル記、第1、2章30節参照)。こうして、ミカルは、自分のプライドのゆえに、主の祝福を失ってしまいました。「サウルの娘ミカルには死ぬまで子供がなかった。」(サムエル記第2、6章23節参照)。私たちも自我の強い者です。プライドがある者です。それゆえに主からの祝福を失う恐れがあります。日々、省みて、自我を捨てて、再出発の恵みにあずかりましょう。
清宣教師