きょうの個所は、神殿の奉献式です。ソロモン王が民を代表して祈りを捧げました。「天からこれを聞き」(23節、25節、27節、35節など)とか、「あなたの御住まいの所である天からこれを聞き」(21節、30節、33節、39節など)という表現が目を引きます。ソロモンは、創造主なる神様のことを、「天も、天の天も、あなたをお入れすることは出来ません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」(18節)という認識があったからのことでした。それでも、この宮に向かって捧げる祈りを、「あなたの御住まいである天から」これを聞いてくださる、という確信があり、それを祈りのことばとして表現したのでした。その願いの中には、罪の告白、飢饉、疫病、敵との戦いなど、もろもろのことが含まれていました。まさに、神の宮とは、「祈りの家」と呼ばれるにふさわしい場所でした。主は、今日の教会に対してもまた、「祈りの家」となることを願っておられます。それぞれの地域に、主がご自分の教会を建てられたのは、それぞれの地域の執り成しの場所として、暗やみを照らす灯台のような役割を期待しておられるというのが一つの理由です。
さて、この6章14節~42節が、ソロモン王の祈りのことばです。なんと力強い祈りでしょう。ところで、聖書の中には、他にも、祈りを記録している個所があります。例えば、ネヘミヤ9章の祈り、ダニエル9章の祈り、サムエル第2、22章のダビデの祈り、エペソ1章や3章にある使徒パウロの祈りがあります。また、短い個所ですが、主キリストのゲッセマネの祈りも記録されています。ソロモンの祈りを含めて、いずれも、自分の小ささ、無力の自覚から、父なる神へほとばしり出る祈りとなっています。
私たちの教会のめざすところは、「祈りと告白と赦しによる共同体」です。キリストの体である教会、私たちの西多賀教会のそれぞれの兄弟姉妹が、絶え間ない祈りを捧げることにより、主の愛の共同体として変えられ、成長していくのです。祈りは、主との親しい交わりだからです。
清宣教師