さて、ソロモン王の名声は、はるかに、地の果てにまで及びました。南のシェバの地から、シェバの女王がやってきました。ソロモン王の名声を聞いて、その知恵と知識を確かめにやってきたのでした。イエス様も、この時の出来事を引用されて、人々の不信仰を責めておられます(マタイの福音書、12章42節参照)。異邦人であっても、まことの知恵を求めて、遠くから確かめに来たのです。シェバの女王は、うわさには聞いていましたが、それを鵜呑みにしていたわけではなく、半信半疑だったのです。むしろ、信じることが出来なかったのです(6節)。しかし、自分の目で確かめよう、と決断して、ソロモン王のもとに来たのです。今の時代でも同じです。最初から信じていなくても大丈夫です。そのうわさを聞いて確かめるなら、主はその熱心を受け入れて下さいます。そして、真理へと導いて下さいます。求道する心がとても大事です。シェバの女王は、そのために、捧げ物をもってきました。つまり、それだけ熱心に求道していたのです。お金もかけず、努力もせずに、求道しているといっても主の前には、通用しません。やはり、永遠の命にかかわることですから、犠牲を払って求める者に解決が与えられるのです。畑に隠された宝物を発見したら、自分の持ち物をすべて売り払い、その畑を買い取るような熱意です。「求め続けなさい。そうすれば与えられます」というイエス様の約束のことばは真実です。そして、次から次へと、ソロモン王の栄耀栄華が記されています(13節~28節)。イスラエルの歴史上、空前絶後の繁栄でした。
ところが、ところが、イエス様は、人々に次のようにメッセージされました(マタイによる福音書6章28節~34節)。「 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」 ソロモンの栄耀栄華は、人間の目から見たら、素晴らしいものでした。しかし、神の目にはそうではありませんでした。主なる神が、私たちのために天の御国に備えておられるものは、はるかに、はるかに、素晴らしいものなのです。天の父は、御国のこどもたちのために、この上ない素晴らしいものを備えて下さっています。そして、この地においては、天の父なる神様は、私たちに必要なものはすべて御存じであり、惜しみなく与えて下さるお方なのです。信頼しましょう。
清宣教師