前章の後半では、主の一方的な恵みにより、レハブアム王の王位が確立しました。ところが、王位が確立して安定すると、レハブアムは自分の業績としてしまいました。問題があると、主により頼み、解決すると、自分の業績にしてしまう罪人の本性が現われています。そこで、主は、エジプトの王シシャクを用いて、南ユダを攻撃させます。そして、預言者シェマヤを遣わして、レハブアム王とユダのつかさたちに、主への不信の罪を宣言しました。すると、レハブアムとつかさたちがへりくだり、「主は正しい」と告白しました。そこで、主は、憐みにより、南ユダを徹底的に亡ぼすことをさせず、再度、復興するチャンスを与えられました。しかし、主の憐みにより安定すると、また、レハブアムの心が主から離れるのでした。ですから、聖書は「彼は悪事を行った。その心を定めて常に主を求めることはしなかった」(14節)と結論付けています。その要因のひとつとして、「彼の母の名はナアマといい、アモン人であった」と記されています。これは律法で禁じられていた事でした。つまり、最も影響力のある母が、偶像礼拝者であれば、影響を受けないはずがないということです。(もちろん、異邦人であっても、ルツのように真の信仰者もおりましたが、ナアマはそうではありませんでした)。
聖書は、「心を定めて、『常に』主を求めること」を強く勧めています。私たちの心は、つねに、いろいろなことを感じ、いろいろなことを考えています。四六時中、そうです。何も感じなく、何も考えていないのは眠っている時だけかもしれません。私たちの心は、『常に』何かを考え、何かを心配したりしています。失敗しないように考え、罪責感で傷ついたり、うまくいって喜んだり、絶え間なく、自分自身の心の中で処理しています。しかし、心の中心には至聖所があります。そして、イエス様は至聖所の隔ての幕を、すでに、取り除いて下さいました。私たちは、絶えず、主の前に出ることが出来るのです(へブル人への手紙、10章19節、20節参照、へブル人への手紙4章15節、16節参照)。
私たちが絶え間なく、一人だけで考える習慣から、心の奥にある至聖所の神様との会話へと切り替えるなら、「私たちの内なる独り言は、神様との連続した会話」となります。「私たちの絶え間ない考えは、絶え間ない祈り」へと変わります。なにもかも、ひとりで考え、ひとりで思うことを止めて、つまり、孤独の習慣にサヨナラして、なにもかも、御父と御子の霊である聖霊様と会話しようではありませんか。主は私たちの心配ごとをすべて、愛情をもって聞いて下さるお方です。私たちの心の中心におられるお方はパラクレイトス(共におられる)の神です。慰め主なる神様です。
清宣教師