前の31章では、ヒゼキヤ王をはじめ、南ユダ王国の民たちも、主に対して誠実に仕える姿勢が鮮明に描写されているにもかかわらず、この32章では、とんでもない大きな災いが南ユダの国に襲いかかってきました。アッシリアの王セナケリブが大軍を率いて南ユダに攻め入ってきたのです。いつもなら、主に誠実に仕えた後は、繁栄や平和が来るはずです。しかし、ここでは、サタンがヒゼキヤ王の誠実さを妬み、襲って来たようです。それを許された主には、主の御計画があったのでした。それは、ちょうど、出エジプトの時のように、神の民が絶体絶命の窮地に追い詰められたとき、(そしてサタンが勝利を目前にして笑っている時)、まさに、主の御力と栄光が現されるのです。それはヒゼキヤ王にとってステップアップの時でした。ヒゼキヤ王は、「雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいる大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。・・・彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である」(7節、8節)という素晴らしい信仰の告白をし、民たちは、ヒゼキヤ王の信仰告白のことばによって大いに奮い立ちました。いろいろな困難はありましたが、主はひとりの御使いを遣わして、アッシリヤのセナケリブ王の陣営にいたものたちを全滅させました(21節)。こうして、ヒゼキヤ王は大勝利をおさめ、まわりの国々からも尊敬をもってみられるようになりました(23節)。しかし、そのあと、ヒゼキヤ王は、死ぬほどの病気になりましたが、主の憐みにより奇蹟的に癒されました。ところが、ヒゼキヤ王は、ここで高ぶってしまいました(25節)。今まで何度も繰り返されたパターンです。人は成功すると「その心を高ぶらせ」てしまうのです。信仰者にとっての最大の危機は、成功したときに来ると言われます。しかし、ヒゼキヤ王は、預言者が警告した時、その心の高ぶりを捨て、民たちも高ぶりを捨てたので、ヒゼキヤ王の時代には、エルサレムは滅亡から免れることができました(26節)。
私たちの信仰の人生で、あるいは私たちの教会で、最大の戦いはすでに終わったのでしょうか。それとも、これから来るのでしょうか。すでに終わったとするなら、備える必要はありません。しかし、これから来ると理解するなら、その最大の戦いのために、備えをしなければなりません。マーリン・キャロザース師は、87歳の時、自分自身の経験から次のように記しています。「実は、人は年を取れば取るほど、サタンの試みは激しくなります」。私たちの信仰の人生で最大の戦いは、これから来るのです。ステップアップする必要性を感じなくなった時こそ、自己満足の高ぶりに陥っている証拠です。神様との画期的な出会いをした最新の証しをもっているでしょうか。もし、ずっと前のことであったら、過去の霊的記憶としてあるだけで、油がない状態です。いつでも、最新の油注ぎの経験を証しできる信仰生活を目指してステップアップする必要があります。後ろのものを忘れて、目標を目指して一心に走り続けるのです。
清宣教師