マナセが王となりました。12歳で即位し55年間も治めました。偉大な宗教改革者の息子でありながら、偶像礼拝に陥ってしまいました。現代の注解者によると、その理由として、ヒゼキヤ王の宗教改革は、当時、急進的であり反アッシリア政策をとっていたため、外交的にたえず緊張関係があったのではないかと推測する見方です。それで、マナセは、多くの近隣諸国の親アッシリア政策にならい、アッシリアと結んだことにより、偶像礼拝の影響を受けたのではないかとしています。マナセは、政治家としては有能で、歴代の王の中で最長の55年間も治世したことも、そのような理由からではなかったかと推測しています。しかし、それがバアル礼拝、アシェラ礼拝となり、最悪の偶像礼拝の時代をもたらしたといえます。そのような状況の中で、主はマナセや民たちに預言者を通して、主に立ち返るように呼びかけました。それでも、「彼らは聞こうともしなかった」(10節)と記されています。その結果、主は、アッシリアの王の配下にある将軍を用いて、マナセを鈎で捕え、青銅の足かせにつないでバビロンに引いていきました(11節)。主が、このような強硬手段をとったときに、マナセは初めて主のもとにへりくだり、立ち返りました。悪王もまた、悔い改めるチャンスがあるということです。このような強硬手段も、マナセを立ち返らせるためでした。そして、立ちかえった時に、主はそのまま受け入れてくださいました。これまでは、善王が登場するたびに、その治世の後半は高ぶりによって主から離れてしまうというパターンの繰り返しでした。今回は、その逆パターンでした。どんな悪王でも、主に立ち返るチャンスがあるということです。してみると、人間は変わりやすいということが分ります。だからこそ、立っていると思うものは誇り高ぶるなということです。自分で立っていると思い込んだらおしまいです。クリスチャンもそうですね。はじめは謙遜ですが、他人からほめられたりすると、いつのまにか、その人のうちに信仰者としての虚像が形成されてしまいます。
これまで何度も見てきましたが、失敗は、ある意味、問題ではないということです。でも、成功は、自分で余程注意していないと、主から引き離します。皆さんからよく思われるために成功を追い求める人になってしまいます。こうなると、仲間の間ではますます良い人として評価されますが、主の前では忌み嫌われる者となっていることに全く気づかなくなってしまいます。ですから、失敗は、ある意味、とても強い味方です。自分にではなく、主により頼む方向へと引っ張ってくれるからです。
それにしても、人間は変わり易い存在です。しかし、私たちの神、主は永遠不変のお方です。主の愛は、なにものにも影響されることなく、私たちを愛し続けます。主の愛は、無関心ではなく、すべてを御存じであってなお、愛し続けられるのです。このようなお方が私たちの主、私たちの神です。主を心からほめたたえます。
清宣教師