学者エズラのエルサレム帰還の目的は、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルの民に主のおきてと定めを教えることでした(7章10節参照)。さて、9章1節には、「これらのことが終わって後」と記されています。4ヶ月に及ぶ旅を終えて、主の宮の器類の受け渡しやもろもろの作業を終えて、いざ、これから、本来の仕事にとりかかろうとしていた時のことです。エズラは、つかさたちに、民たちの信仰や生活の実態を調査させていたようです。つかさたちが、その調査結果をエズラに報告しました。その内容が1節の後半から2節に記されています。すでにイスラエルの民が主の律法を破り、律法で禁じられている異邦の民と婚姻関係を結んでしまっているという現状でした。しかも、つかさたちや代表者たちが、その不信の罪の張本人であるという、驚くべき報告でした。
その報告を聞いたエズラは声もなく、衣を裂き、無力感に打ちのめされてただただ座っていました(4節)。しかし、夕方の捧げ物の時刻になり、気を取り直して主の前に祈りました(5節~15節)。その祈りの内容は、悔い改めの祈りでした。先祖の時代からの罪過のゆえに、捕囚の民となり、いま、ようやく、一方的な主の憐みにより、バビロン捕囚の奴隷の状態から解放されて、エルサレムへの帰還をゆるされて、新しい一歩を踏み出すチャンスを与えられたのに、早くも主の律法に違反している、という事実を覚えて、「今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。」(10節)という悲痛な叫びをあげるしかありませんでした。また、「主。あなたは正しい方です。・・私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことは出来ないのに」(15節)という以外に何も口にすることは出来ませんでした。ただただ、主の前にひれ伏し、涙ながらに罪を告白する以外になかったのです(10章1節)。
今日の個所は、悔い改めの個所です。私たちは主の恵みにより、主イエス様との出会いが与えられ、罪赦されて、新しいいのちを歩む人生を許されました。ところが、自分自身の生活を振り返ると、しばしば、古い自分、罪の習慣に逆戻りしている自分自身を見出します。バプテスマ式の意味は、水に沈められる(墓に葬られる)こと、そして、水から出てくること(復活のいのちにおいて生かされること)を意味しています。私たちはバプテスマにおいてキリストと共に葬られました。そして、キリストにある新しい命において、新しい人生を歩み始めたものです。その人生が確実に自分自身のものとなるように、日ごとに、感謝のいのりと共に、悔い改めの告白をもって、その日、その日を閉じたいと思います。
清宣教師