王妃ワシュティを失ったアルタシャスタ王は、寂しさを覚えるようになります。側近たちは、ワシュティが王妃に復位することを恐れて、素早い動きを起こしたように見えます。王の心を動かすために、新しい王妃選びの基準を決めました。第1に、美しさ、第2に、若さ、第3に、処女であることでした。さて、王妃の候補者選びが始まりました。このとき、シュシャンの城にいたひとりのユダヤ人モルデカイの娘も候補者の一人に選ばれました。ペルシャ名でエステル、ユダヤ名でハダサでした。エステルの両親はすでに死んでおり、エステルはモルデカイに引き取られて育ちました。エステルは、婦人部屋に入れられて、12カ月の準備期間を経て、いよいよ、王宮に召されました。アハシュエロス王の治世の第7年の第10の月のことでした。紀元前479年の12月あるいは翌年の1月のことと考えられます。そして、遂に、王妃に選ばれました。被征服民の孤児が大帝国の王妃となったのです。ここで、この証しが終われば、すべてがハッピーなのですが、これは終わりではなく、これから、大きな試練が始まるのです。エステルは王妃となりましたが、数年後、2度目の王妃選びが行われたようです(19節)。ソロモンが700人もの王妃をもっていたことからすると、アハシュエロス王にも複数の王妃がいたと考えられます。このころ、モルデカイは、シュシャンの城の入り口を守っていた宦官の二人がアハシュエロス王を暗殺しようとしていたことを知り、王妃エステルに知らせました。王妃エステルはモルデカイの名前で、このことを王に告げました。この暗殺計画が追及されて、宦官の二人は処刑されました(23節)。このことは王の前で年代記の書に記録されたのですが、手違いにより、モルデカイにはなんの恩賞も与えられませんでした。今日の個所では、エステルの人柄が、王の宦官ヘガイやまわりのひとたちから好意を持ってみられていました(15節)。そのひとつの理由は、エステルが謙遜であり、日ごろから、まわりの人たちのアドバイスを尊重していたからであると思われます。エステルは、私たちの良き模範です。ところで、モルデカイは、手違いで、なんの褒美も受けることが出来ませんでした。しかし、この手違いがあったことが、のちに、意味をもってくるのです。主の御計画には間違いがないのです。のちに、最も必要なときに、神の御手の中の切り札として用いられるのです。清宣教師